在宅勤務なので、小遣いカットになった。

 

 

 

 

小学校が休校になったあたりから在宅勤務が増え、クライアントに行かないといけない場合も直行直帰していたので、長らく外食していない。

 

 

 

いまは歓送迎会のシーズンだが、今年はそういうこともやらないので、使うお金は減るやろ、ということで小遣いが減額になった。

おまけに昼食は無料、電気もWi-Fiも使い放題やねんから、となるとまあそのとおりなので仕方がない。

先月のはじめに、ひょっとしたらしばらく家にいることになるかもなと思って前から読みたかった小説をいくつかまとめ買いして、そのぶんがかなり痛いが、まあ仕方がない。

ただ誤算だったのは、家にいてもずっと仕事が忙しくて小説を読むヒマなんてない、ということで、朝からずっとオンラインで対話をしたり、作業をしたりで、昼食をとる時間を確保するのもやっとという感じだ。

でもまあ、小説は今すぐ読めなくてもいずれ読む機会はあるだろう。

 

家で仕事をしていると、何にどのくらい時間がかかっているのかがよくわかる。

ぼくはどうも人から相談を受けている回数と時間がやたら長いことがわかってきたので、できるだけ一度の相談の時間を短くして、残りはチャットでやるとか、先に悩み事をまとめておくようにしてもらうとか、そういう工夫をしはじめたが、うまくいくかどうかはもう少し様子を見たい。

相談というのは、する方もされる方も技術が必要だ。

相談をする側は、そこで何を相談して、どんな援助が欲しいかをはっきりさせておく必要がある。

だがだいたいの場合、そのどちらも不明瞭な状態で、相談はやってくる。

なので、相談を受ける側は、それを明らかにするために時間と労力を割かないといけない。

というか、相談という名がつくもののほとんどは、その人の悩みは何で、そのために今できることは何で、今すぐできないが時間をかけたらできることは何で、そしてどれだけ時間と労力を費やしても可能になるかどうかわからないことは何か、というのを明らかにするための、割と骨の折れる作業なのである。

 

相談に乗る際に、割と気をつけないといけないのは、結論を出すのは相談に乗る側ではない、ということだ。

相談に乗る側がいくら正しい結論を出して、それをするべきだと相手に伝えても、相談者が納得しなければ何の意味もない。

だから、相手の考えるペースにある程度付き合って、本人なりの結論ないし仮説が出てくるまで待ってやらないといけない。

だが大抵の場合は、みんな辛抱できなくなって、途中からは相談を受ける側は同じ結論ばかりを繰り返すようになり、相談者は同じ葛藤についての言葉ばかりを繰り返すようになり、お互いに疲れ果ててしまう。

まあなんにせよ相談に乗るのはなかなか骨の折れることなので、対価をもらう意味は十分にあると思う。

そう考えると、何も見返りも求めずにぼくのわけのわからない相談に付き合ってくれた人たちにはもっと感謝したほうがいいな、とも思う。

 

外では桜が咲いていて、窓から入る風が気持ちいい。

ぼくはしっかりと整備された桜の名所よりも、静かな住宅街で一本だけそっと咲いている桜や、緑の木々の中に混じって立っている山桜を見るほうが好きになった。

見事な霜降り肉よりも堅めのひなびた鶏肉のほうが好きになったのと同じで、まあしっかり高齢化しているのだろう。

服も最近は、紺色とか濃いグレーとかを好むようになってきて、赤や黄は差し色でいいかなと思うようになってきた。

一方で、妻はもっと堂々と咲き誇る立派な感じの桜が似合うような気がするし、派手な柄の服もいまだに見事に着こなしている。

まあ人それぞれだ。

 

わが家で小遣いカット臨時法案が可決されたあと、妻は職場に向かう電車の中で、いつも見かける会社員らしき男性たちが、はじめて在宅勤務をしてみたものの、奥さんに気を使って非常に大変だった、在宅なんてとんでもない、という話をしているのを耳にして、思わず笑いそうになったらしい。

それを聞いてコメディ映画の一場面みたいだなと思った。