失い続ける人生を、生きる。

 

 

 

これまでサラリーマンをしてきて、いまは緊急事態だからしかたがないんだ、という言い方で、色んなことが許される場合というものが何度もあったなあと思う。

 

 

 

いまは大きく儲かる仕事に取り組んでいるから経費をいくらでも使ってもいいとか、いまはとにかく急がなくちゃいけないから普段の手続きをすっとばしてもいいとか、いまはエライ人が怒ってるから深夜とか関係なくスタッフを叩き起こしていいとか、そういう状況になって、周りもお祭りのようになってしまって、普段は発揮していないようなパワーを出し尽くして、でもまあ振り返ると楽しかったよねとか、いやあれはやっぱり辛かったよねとか、まあ良くも悪くも思い出となる。

 

年を取って思うのは、およそ人生というのは、程度に違いこそあれ、そういったわけのわからない緊急事態とそうではない状態が繰り返されていくのだなあということだ。

緊急事態の真ん中に放り込まれると、これまでは許されなかったようなことが突然可能になったり、急に大きな権限を渡されたりして、興奮してあちこち走り回り、色んな人たちに迷惑をかけながら事態をややこしくしていき、しかし偉大な時間という存在のおかげで物事は少しずつ、いつのまにか解決へと向かってゆき、自分もなんとなく何かをやった気になって、だけど実際にはたいしたこともせずに終わる。

終わった後に何か気づくことがあればいいのだけど、まああれは緊急事態だったし特殊なケースだったからねと心の整理をして、また毎日の雑事に忙殺されるようになり、忘れた頃にまた別の、全然違うタイプの緊急事態がやってくる。

 

そういうことを繰り返してきて感じるのは、この繰り返しの中で、目の前の強烈な刺激にとらわれてたくさんの貴重な時間と情熱をそこに費やしてしまったなということ。

そして、だけどあまり変わることなく大事にし続けていることも、ほんのわずかだけどあるなあ、ということだ。

人によれば、その自分の変わらない部分についてはじめからすごく詳しく知っていて、だからこそどんな緊急事態に巻き込まれても平然としていられたり、何が起こっても、自分のやるべきことを粛々と取り組み続けられたりするのだろう。

しかしだいたいの場合は、それはとても難しいことで、実際にわけのわからない事態、これまでの常識が通用しない状況の中でえらいこっちゃえらいこっちゃとタコ踊りを繰り返しているうちに、色んなところで恥をかいて、たくさんケガもして、ボロボロになって、だけど手の中にわずかに残った何かを見つけて、そこで気づくのだろう。

 

ぼくは若い頃、コピーライターという仕事こそがその何かに値すると思っていた。

だけど、時代というたくさんの緊急事態の連続に巻き込まれ、その中でコピーライターという職業も、広告を作るという活動も、それを一緒に取り組む仲間も全部失っていった。

じゃあぼくは何もかも失ったのかといえば、まったくそういうわけではなく、アイデアをみんなで考える、ということへの関心は増すばかりだ。

むしろ、コピーライターという仕事を失ったおかげで、そこに気づけたともいえる。

失うことの中にこそ、発見があるのかもしれない。

きっと先人も、そのまた先人も、そうやって色んなものを失い続け、それと引き換えに新しいものを発見し続けてきたのだろう。

 

 

ぼくらはたくさんの喪失を受け継いで、いまを生きているのだ。