歩くように、生きる。



あとひと月で今年が終わる。



この1年は、自分なりに達成したいことがあったので、ずっと急いでいた。
とてもあせっていて、あっちのほうに進みたい、というものはあって、だけどもっと近くまで行って自分の目で確かめてみないとわからない、そんな状態でいた。
ところがその道中で、後ろから誰かが追いかけてきて、人手が足りなくて困っているからちょっと戻ってきて手伝ってくれとひきとめられたり、あるいは同行している人が進むペースが速すぎて辛いと訴えだしたり、そんな様子を通りすがりの人に見とがめられて注意を受けたり、そうやってモタモタしているうちに時間だけが過ぎていった。
そんな1年だった。
まだあとひと月残っているけど、まあそんなにたくさんは進めないだろう。

そうやって振り返ってみると、まったくもって満足のいかなかった1年だったな、と思う。
これからのことを考えると、ひどく気持ちはあせるし、頭が痛くなってくる。
だけど、まああせったところで状況は変わらないし、少なくとも進む方向だけは定まっているのだから、ずいぶんマシだと思うしかない。

よく考えてみたら、ぼくは厄年の最後の年だ。
それにしてはまあ無病息災だったほうじゃないだろうか。
夏にちょっと腕をケガしてしばらく行動するスピードが落ちたのは辛かったけど、無事に腕も動くようになったし、この程度で済んでよかったと思うべきなのだろう。
まったく余裕のない毎日だけれども、家族に大きなケガも病気もなく、なんとか1年を乗り切れそうで、それを感謝するべきなのだろう。

中学生の頃、塾の先生から、受験は短距離走ではなく長距離走です、いきなりスパートをかけてもすぐになんとかなるような世界ではありません、あせらず粘っていきましょう、というアドバイスをもらったことを憶えている。
そして、年を取って、いまやぼくが取り組んでいるのは長距離走ですらなく、ひたすら自分のペースで歩き続けることなのかもなあと思う。
歩くスピードというのは決して速くないので、なかなか目的地までたどり着くことはできない。

ひょっとしたら、本当にぼくが求めていることは目的地までたどり着くことではなくて、ただ歩いていくその行為なのかもしれない。
歩いていけば、天気も変わる、周りの景色も変わる、出会う人もいれば別れる人もいる。
ちょっとおいしいパン屋が見つかることもあるし、コンビニひとつないような場所を空きっ腹を抱えながらトボトボと行くしかないこともある。
だけど、歩くスピードでなら、そういった変化のひとつひとつを味わいながら、自分の好きなペースで進んでいくことができる。

もちろん、遠くに行く必要があったら電車でもバスでも飛行機でも乗るけれども、そうやってどこか遠くへと移動して、またその先で自分の足で歩く。
自分の足で歩いて、地面の感触を確かめ、そこに転がっている石の形を観察し、落ちているゴミを拾い上げ、あたりから漂ってくる何かを焼くおいしそうな匂いをたどり、同じように腹を空かせた人と出会って、おしゃべりしながら進んでいくことだってできる。
その楽しみを味わうために生きているんじゃないかなあと思う。

だから、まああんまりあせらずに、これからも歩き続けていきたい。