どっちみちぼくらは炎上しながら、生きている。




ぼくは基本的に、いつも叱られながら暮らしている。



いつも、色んな人から、ううんこれはちょっと違うんだよねとか、そういう話じゃないんだよねとか、こりゃあまったくダメだよとか、いつも叱られ続けている。
若い頃は、年を取ったらそういうことは言われなくなると思っていて、たしかに若い頃と同じようなことでは叱られなくなったけど、年を取れば年を取ったなりに新しいテーマが出てくるので、叱られることは絶えないのである。
このあいだも、はてなブログはいつボコボコにされるかわからない、とても厳しい世界だと言っていたら、ある先輩から、いや全然わかってない、あれはスナックです、厳しいなんてとんでもない、あなたは新参者として古株からの洗礼を受けてきただけです、と認識の間違いを叱られた。
たぶん、これからもずっと色んな人に叱られ続ける人生なんだろうなとあきらめている。

昨日、fujiponさんがネットで炎上しても書き続けるためには何が必要なのか、ということについて書かれていた。
fujipon.hatenablog.com

自分が炎上したときにコメントを読んでいると「あなたがこういうことを書いているのは、こういう理由でおかしい、本来はこういうことに注目するべきなのだ」ときちんと叱ってくれている人がいて、これはけっこう頭が痛いというか、本当にそうだなあと思ってしまう。
そういうコメントは、後でもけっこう覚えていて、ふといい加減なことを書こうとしたときにハッとブレーキをかけるきっかけになったりしている。
はてなブログはスナックだ、というのはそういう、人間と人間のやりとりに満ちている面も大きいだろう。

一方で、嫌な気分にさせられるのは、こっちをただの石ころや路上に捨て置かれた空き缶のような目で見て、ストレス発散のためだけに思いきり蹴飛ばしに来るコメントたちだ。
この人たちはぼくのことをはじめから蹴飛ばす対象としてしか見てないから、ぼくがどんな背景でどんなことを感じ何を本当は書きたかったなんてどうでもいい。
ただ気持ちよく蹴り飛ばしてスカッとしたいだけなのだ。
いかに叱られ慣れているぼくでも、普段の暮らしの中でいきなり蹴り飛ばされたり、突然殴りつけられたりすることはまずないので、こういう目に会うと気持ちが沈む。

最近は、そういった通り魔的な行動をする人が増えたような気がして、ちょっと憂鬱な気持ちになる。
朝の満員電車に乗ると、窮屈な空間の中でみんなイライラをこらえ、誰もワーとかギャーとか叫び出したりせずに目的地に着くまでの時間をじっと耐えている。
その代わりにスマホに向かって何か黙々と書きこんでいる人はたくさんいて、ひょっとしたらその中の何人かは通りすがりのブログ記事を殴りつけ、知らない人間の書く文章を思いきり蹴飛ばして、イライラを解消しているのかもしれない。
みんな色々とモヤモヤを抱えているのだろう。

きっとそんなことはこれまでもあったのだ。
バッティングセンターでにっくき上司の顔を思い浮かべてカキーンとやったり、レジでモタモタしているバイトの若者に一言嫌味を投げつけたり、カラオケで怒鳴りまくってスカッとしたりして、みんな何かを発散させてきて、その選択肢のひとつとして気に入らないネットの文章を殴りつける、という行為が増えただけなのだろう。

たぶんそういう人は、普段はとても疲れていて、無力さを感じることが多く、やりどころのない感情を抱えているのだろう。
それはぼくだって例外ではない。

だからこそ思うのは、そんな人こそ文章を書いてみてはどうだろう、ということだ。
いきなりブログみたいに不特定多数に読まれる場所に書かなくてもいい。
ぼくもブログだけでなく、紙のノートにふと思ったことを書くようにしている。
あれはムカついたとか、あれは悔しかったとかいうのはそこに書く。
ただまあ、最初はそういうつもりでいても、実際に書きはじめてみると意外とそんなことを書く気は起こらなくて、いつのまにか最近楽しかったことや面白かったことばかり書いていたりする。
そうやって書くことが楽しくなってくると、赤の他人をすれ違いざまにノックアウトさせる以外の趣味が生まれるわけだ。

書くことは楽しい。
それを一度でも知ってしまったら、誰かが一生懸命書き上げた文章をゴミのように蹴飛ばしたりはしなくなるだろう。

ぼくらはどっちみち人生のどこかしらで叱られ、絡まれ、あっちこっちで炎上しながら生きている。
だからこそ、せめて文章を書いているときぐらい気持ちよく時間をすごしたいものだ。

だから最近はひどいコメントを見かけたら、ああこの人はまだ本当の楽しみを知らない人なんだな、早くこっちに来たらいいのにな、と思うようにしている。



もちろん負け惜しみをこめて、ですが。