ハーレーダビッドソンは、持っていない。




お気に入りの紫色のスニーカーがある。



気に入ってそればかり履くものだから、もうボロボロになってしまってどうしようかと思っているけど、実はぼくはこのスニーカーを手に入れるまで、紫色の靴を履くなんてことは考えたこともなかった。

それは妻と一緒に買い物をしていた時のことで、ちょうど好きなメーカーのスニーカーがいくつか安く売られているのを見つけた。
店員さんに聞いたら、店を閉めるから在庫処分なんだとあんまり浮かない顔で答えられ、なんだか大きくなりすぎて売れ残ってしまったペットショップの犬たちを見るような目でスニーカーたちを眺めていたら、妻から、どうせだから買えるだけ買っちゃったら、とすすめられたのだった。
買えるだけ、といっても当然ながら全部買えるほど裕福でもないので、何足かを厳選しないといけない。
そういう目でよく見ると、売れ残っているだけあってちょっと変な色や変な形のものばかりだった。
紫のスニーカーは、その中ではまだマシに見えたし、一足でも多く救い出したいという気持ちが強かったせいか、あまり抵抗なく買ってしまったのだ。
ところが実際に履いてみると、まったく抵抗がなかったし、思ったよりも色んな服と合うし、周りからもほめられるので、そればっかり履くようになってしまった。

若い頃は自分に何が似合うかなんてよくわからないから、流行りの色や形や、あるいはそれに逆行したものをあえて身に付けたりして、ちょっとずつ自分に似合うもの、好きなものを見つけていったと思う。
振り返ってみると、買った靴やら服やらレコードやらCDやら本やらのうち、半分くらいがハズレで、残りのうち9割ぐらいがハズレではないけど決して満足しているわけではないもので、あとの1割だけが心の底から納得できるようなものであるような気がする。
つまりほとんどが失敗なのだ。

年を取ってくると、さすがにそんなにたくさん失敗していられないし、自分のストライクゾーンはかなりはっきりしてくるので無駄な買い物は減った。
それと同時に、あとさき考えない行動の結果生まれる偶然の出会いのようなものも大きく減って、それがあまりにも続くと人生がつまらなくなってくる。
だから、中年の危機を迎えた男性は突然ハーレーダビッドソンを買って走り出すのだ。

ぼくは大型二輪免許は持っていないし、
あんまり運転も好きじゃないので、その代わりに、出張などでちょっと時間ができたら無目的に歩く。
いかに目的地まで最短距離で行くかに心血を注いでいる知人がいて、それはそれでゲームとしてありえるのだろうけど、あくまで目的地がある場合だ。
ぼくの場合は目的地がそもそもないので、歩きながら今日のテーマを考えなきゃいけない。
感じのいい喫茶店が見つかるまで歩こうとか、一体どうやって経営が成り立ってるのかよくわからない古い本屋が見つかるまで歩こうとか、そういう具体的なテーマでもいい。
でも、もっとぼんやりと、なんとなく感じのよさそうな路地を探すとか、好きな感じの苔が生えてる場所を探すとか、昔から残っていそうな何か古いものを探すとか、そんな歩き方をしてみるのもいい。

実際に、そうやって歩き始めるとすぐにグーグルマップで現在地を確認しようとしてしまうのだが、それでは意味がない。
いま自分の目に入ってくる光景だけを頼りに歩き、思ったのとは違う通りに出ては戻り、同じ場所を何度も行ったり来たりすることが大事で、あっちこっちを迷いながら歩いているうちにその土地に共通した特徴に気づくし、その中での違いも見えてくる。
自分の目線がどんどん低く、視野が狭く、そして眼差しが公平になってくる。
ここは高級住宅地、ここはさびれた商店街、ここは工場地帯、というような決めつけた見方から、目の前にあるものをひとつひとつ確かめ、味わう姿勢へと変わってくる。
そうやって元の位置に戻ってきたときに、さっきまでとはちょっと違う風景が見えてくるのだ。

この通り、無目的に歩くにはけっこう訓練が要る。
乱暴に言うと、人生も同じじゃないかなと思っていて、いつだってわかりやすい目的地があるとは限らない。
よく仕事でも、この打ち合わせのゴールは何ですか、この取り組みの目的は何ですか、と何でもかんでも詰問する人がいるけど、しかしどんなことにも明確な目的があるわけではないのだ。
むしろ不明瞭なほうがぼくは好きで、なぜならそこから自分で行き先を決めちゃえばいいからだ。
もし行き先が思いつかないなら、とりあえず歩きはじめればいい。
この生き方はつまらない、この生き方は平凡すぎる、なんて決めつけずにウロウロしていれば、少しずつ自分の新しい関心の先が見えてくる。
そこから方向転換すればいいだけの話だ。

自分の目で確かめて、自分の足で歩いてみて、身をもって失敗して、また振り出しに戻る。
それでムダな時間をすごしたなんてがっかりする必要はまったくない。
そこでよく周りを見渡してみれば、さっきまでとはちょっと違う風景が広がっていて、次に自分が進んでいきたい道がぼんやりと浮かび上がっていることに気づく。



ぼくはそうやって、ウロウロ、ブラブラ、フラフラしながら生きている。