大西順子さんと、月曜日の生ゴミ。



村上春樹さんのラジオ番組を聴いていたら、ジャズピアニストの大西順子さんの話になって、彼女が2000年の大阪公演で長期休養宣言をしたときのことについて触れていた。



ぼくは当時好きだった女の子をこの公演に誘って聴きに行く予定だったのだけれど、当日に急に風邪を引いたから行けなくなったと断られ(つまりフラれた)、ショックでふて寝をして結局聴きに行かなかった。
今考えればどれだけショックでも、ヒマな友人を誘って聴きに行けばよかったなと思うし、誰もいなくても一人で行けばよかったと思う。
まあそんなことを今さら後悔しても仕方がなくて、当時のぼくにとっては音楽よりも恋愛のほうが重要だったのだろうし、今だって音楽よりも重要なことばかりが頭の中にあって、いつまでたっても大西さんの公演を聴きに行くことがないまま人生を終えていくような気もする。

2000年といえば世の中はミレニアムとかなんとか言っていたような気がするけれども、景気はずっと良くなくて、明るいニュースなんてなかったように思う。
ぼくは1999年にコピーライターの勉強を始めて、ちょうどその頃はもっと力をつけたいと思ってひたすら本を読み、文章を書く練習をしていた頃で、でも音楽もよく聴いていた。
それまではヒップホップが好きで、特にデ・ラ・ソウルやア・トライブ・コールド・クエストといったニュースクールと呼ばれる人たちの音楽ばかり聴いていたのだが、コピーの勉強をしはじめたころからヒップホップをあまり聴かなくなった。
代わりにジャズを聴くようになったのだが、もともとニュースクールの音楽ではジャズがサンプリング音源としてよく使われていて、好きな曲の多くがジャズをサンプリングしているものだったので、じゃあ元ネタから聴きますか、というノリだった。
周りからも、君の聴いている音楽はラップがなければいい音楽なのにね、ともよく言われてた。
ただそれは今考えると当たっていなくて、ラップがあるからかっこよかったのだとやっぱり思う。

ヒップホップを聴くにあたってぼくが大事にしていたのは、その曲が黒人的なものかどうか、ということだった。
黒人という、ロサンゼルスやニューヨークといった大都会で、マイノリティとしてその街の音楽に触れ、普通の楽しみ方とは違う視点でその音楽を見つめ、面白いなと思った部分をサンプリングという手法でつまみあげ、ラップと混ぜ合わせて自分達のものにしてしまう自由さと諧謔心にすごく魅力を感じていた。
ジャズについては詳しいことはよくわからずに楽しんでいたけど(ひとつのことに凝り始めるとそればかりやってしまうので、あえて掘るのを抑制していた)それでも一つ一つの曲に黒人的なものがあるかどうか、はすごく気になっていた。
チャールズ・ミンガスマイルス・デイビスにははっきりと、そういう自由さがあった。

日本人のジャズもいくつか聴いてみたけどあんまりピンとこなくて、ただ大西順子さんだけはよく聴いていた。
その大西さんのことについて村上さんが話をしたときに、そういったことがワーッと一気に思い出されて、それで、あの頃に大切にしていた感覚は今でもちゃんと覚えていて、自分の真ん中にあるものは何も変わっていないなと思った。

思うに、ぼくは生まれてからずっと、ちょっとだけズレていて、ズレた視点から世界を見ている。
しかし自分がズレていることがわかっているので、ズレていない真っ当な人たちが見ている世界はきっとこうだろう、と補正をかけて、まるで自分も真っ当な人間であるかのようなフリをして暮らすことに慣れてしまっていて、だけどそれは矯正でしかないので、わかる人にはすぐにバレるし、ふとした瞬間に制御が利かなくなって暴走したりする。

それでも、ぼくはけっこう長い間、ギプスをはめて暮らしてきたなと思う。
最近は、ギプスなしで生活しているつもりだけど、あらためて昔のことを思い出すに、やっぱり今はまったくもってまともに生きていて、まだまだズレが戻ってきていないと感じる。

大西順子さんの音楽を聴いていた頃、ぼくはたくさんの小説を読み、それまでと全く違う世界の見方を知った。
ぼくよりもずっとズレて世界を見ている人がたくさんいることも知った。
世の中には目には見えないもの、耳には聞こえないものが存在していることは以前から知っていたが、それを堂々と認めてよいということも知った。
それは、ぼくの中でゆるがないものとなり、ちょっとやそっとのことがあっても(もちろんすぐに焦るのだけれども)それはそれで受け入れて生きていくしかない、という一種のあきらめのような、それでていて自信のようなものが生まれた。

ぼくは今はコピーを書くこともなくなったけれども、取り組んでいることのすべてがぼくの表現だと思っている。
それはどこにも答えなどなく、誰も理解なんてしてもらえない、ズレた世界で生きてくことを意味している。
なのに、ふと、何かまともなことをしているフリをして誰かに認めてもらおうとしたりする。
そして、そんな苦労をしている自分を誰かにかわいそうだと思って欲しがったりする。

だけど、まあそれでも進んでいくしかない。

ぼくが本当に欲しいものは、君はよくがんばったね、大変だったね、辛かったね、なんて言葉じゃない。
見たことのない世界を見つけ、この先がどうなるかわからない中で一歩を踏み出す、その危ない感じがたまらないのだ。
知らない場所を歩き回るのに、自分をかわいそうだと思う気持ちなんてかさばって邪魔なだけだ。
他の生ゴミと一緒に月曜日の朝に捨ててしまおう。



だからやっぱり、女の子にフラれたって、大西順子さんの公演には行くべきだったのだ。



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