言いにくい、欲求。




わが家では妻がカリスマ的リーダーである。



ぼくは子どもたちと並列(あるいはそれよりも下)で彼女のフォロワーである。

会社で働いていると、いかに仕事の中でリーダーシップを発揮したか、ということばかりを問われるし、実際にそういう役割を自分がやらないと物事が進まなくて困ることが多い。

また、そもそもぼくという人間は非常に自分本位な人間で、基本的になんでも自分が思ったようにいかないと気が済まない性格なので、だったら自分がリーダーとして動き、しかし自分の思った通りに他の人が動いてくれるわけではないので、一緒にやってくれる人たちのことにも気を配りながら進めるしかない、などとどうも勝手に思い込んでいるような気がする。

しかし当然ながら他の人たちも同じように思っているわけで、お互いに誰がこの仕事のリーダーシップをとるのか、ということに関心を寄せ、常に狙っていて、しかしその勝負は割と一瞬にして決まるので、ああ今回はあいつがリーダーかあ、と思いながらじっと黙って言うことを聞く人もいるし、これはつまんねえなとスッといなくなる人もいる。

どうもぼくは仕事をしていると、そういうところで無駄に神経をすり減らしている部分があるなあと感じていて、しかしまあ今はもうそんな何でもかんでも仕切らないと気が済まないような年齢でもないし、おっさんになるとみんなが腫れ物に触るように接してくれるので、そんなにひどく悩んでいるというわけではない。

ただ、なんとなく、誰か(それは一人とは限らないが)絶対的な存在に対して完全に服従する、というようなことにはものすごい抵抗感があって、たまにそういうことが要求される場面に出くわすと理由もなく歯向かいたくなるのである。

もちろんサラリーマンとしてそういう性格は決して良い方向には転ばないのであって、どれだけ耐えられないと思っていてもグッとこらえるしかないし、それでもやっぱりこの人の言っていることはおかしいと思った場合はやり合うしかない場合もあるし、なんとかその間をうまく行けたらいいのだが、そんなにいつも成功するわけではない。

何を長々と言い訳をしているかというと、本当はぼくの中に、何か絶対的な存在に対して、余計なことをああだこうだと考えるのをやめ、全面的に降伏して完全に服従してしまいたい、というような欲求もあるように思うのである。

しかしもちろん、人間たるものそういう態度を取るべきではない、とも思っていて、先の戦争に代表されるように、思考停止で何かに完全服従することはもはや悪そのものだという意識は、ぼくだけでなく、多くの人が持っているのではないだろうか。

わかってはいるが、しかしぼくはどうも心のどこかで、誰かに心酔し、傾倒し、その人の言っていることは絶対なのだとすべてを受け入れ従いたい、そういう欲求を持っているように思うのである。

ぼくの場合は、それが妻である。

ちなみに妻が絶対的存在であると、いいことがある。

それは、どれだけエラい人の話も、あんまり真剣に受け止めなくなることである。

ぼくにはもう自分が心から尊敬し服従するべき対象があるので、他にどれだけカリスマがあって、権力があって、ぼくに対する生殺与奪権がある人がいても、だからなんなんだと思うようになる。

ぼくにとっては、そんなエラい人の言うことよりも、妻が言うことのほうがずっと正しく、重く、神聖だからである。


信仰というのは、そういうところから生まれるのかもしれないな、とふと思う。

厳しい競争にさらされ、信じていた人間から裏切られたり、あるいは絶対だと思っていた権力者が突然失脚したり、そういう現実の中で生きているうちに、人は何か別の、神聖な存在に従いたいと思うようになるのではないだろうか。

もちろん、何かに盲目的に服従することを手放しで喜ぶことは、やっぱりできないだろう。

ぼくが言いたいのは、そういうことではなくて、誰もが尊敬する人物や誰もが従う存在を、そうしなければいけないと思い込んでみんなと同じように完全服従する必要なんかなくて、それよりも自分だけの絶対的存在を崇め、心の頼りにするほうがずっと自由じゃないだろうか、ということである。


何かへの服従が、自由をもたらす、というのは不思議な感じではあるけれども。