幸せとは何かといえば、それはぽんずしょうゆのある家だと決まっていて、ぼくはそういう、人生の先輩たちが作ってきた価値観の中で育ってきた。
となりのトトロはまあ実在はしないけど、自然は大事にしなきゃいけないよね、ぐらいは思っていて、スーパーサイヤ人にはなれないが、やられてもやられてもあきらめなければ強くなれるとは信じていたような気がする。
ぼくの父親は広告会社のデザイナーをしていて、まさか自分も同じ世界で働くようになるなんてことは夢にも思ってなかったが、母親もファッションデザイナーだったし、まあまともな環境ではない。
新しいことはいいことで、消費することは娯楽で、こだわりを持つのは正義だった。
そう考えると、ぼくは40年以上生きてきて、割と価値観が変わったなあと思うことも多い。
新しいことは人から教えてもらって知ることばかりだし、大量消費をするほどのパワーは持ち合わせていないし、こだわりはボツになった企画書と一緒にシュレッダー行きだ。
もちろん、変わらないことや、形は変わってもずっと大事にしていることというのはいくつもあって、だからこそああ自分の価値観も変わったなあ、なんて余裕こいていられるのだ。
いや、きっと色々とひどい目にもあったような気がするし、バカな失敗もたくさんやらかしてきたような気がして、そういう社会勉強の中で、多少はまともな人間になろうとして、価値観を無理にゆがめてきた部分も大きいような気もする。
あるいは、自分のこだわりが強すぎて、自分らしい価値観を作り直さなくてはという強迫観念にとらわれて、ずっと苦しんでいたような気もする。
ちょっと前までは、過去について思い出すたびに、そういう辛かったときのことばかりが思い出され、またグツグツと恨みのエネルギーが再燃し出したりしていた。
ところが最近は、なぜか楽しかったこと、うれしかったことばかりを思い出す。
たぶん子どもたちとドラゴンボール超の映画を観に行ったり、一緒にキャッチボールをしたりしていることが直接のきっかけのように思うが、それと同時に、ああ自分の人生はしかしまあ幸せな時間ばかりで構成されているなあとも思うのである。
もちろん、その時間を得るためにぼく自身が努力してきたということもあるけど、だとしたらそんな努力がちゃんと報われる機会がある、という幸運自体がすごいことなのである。
あるいは、努力が報われなくたって、今こうやって生きてブログを書いていられることがすごい。
おまけにこんなどうでもいい話を読んでくれる人がいてくれるのが本当にありがたい。
そんな風に最近はよく思う。
まあこれからの自分はひたすら老化の一方通行で、能力が向上することはない。
毎日、人生の終わりへと近づいていっている。
もうこれ以上幸せに生きることはできないだろう。
そう考えても、あんまり気分は悪くない。
幸せというのは、ぽんずしょうゆのある家であり、少なくともぼくはそんな家で暮らすことができたわけだから。
あとは何でもいいから、他の人たちの幸せに役立つ、少しはマシな何かを残していけたら、もう何も言いたいことはなくなるような気がする。