「書くこと」なんて、手段でしかない。




ぼくが、このブログを書き続けている理由のひとつは、変わり続ける世界と、それに合わせて変わり続けなければ生き残ることができないぼくの人生の中で、それでも変わらないものを確認しておきたい、というものだ。



そんな風に言うと、自分の中で永遠に変わらないものが存在するようだけれども、それは怪しい、と今は思っている。

ずっと変わらずに大切にしたいと思っているものも、実は少しずつ、自分も気づかぬほどゆっくりと、しかしもう戻れないぐらい大きく変化してしまっていて、それなのに、ぼくは不変のものだと思い込んでいるだけのような気がしている。


ぼくが自分の中で「変わらないもの」と認識しているもののうち、特に大事にしているのは「書くこと」だ。

たしかにぼくはずっと「書くこと」と共にあった。

子どもの頃から作文も好きだったし、創作もしていたし、国語のテストはだいたい満点だったし、日記も昔からつけていたし、ついには仕事にもした。

ところが、最近はこうやってブログを書くとき以外は、まとまった文章を書くことがひどく減った。

もちろん、何かを文章を書かないと落ち着かないのは変わらないのだけど、それを自分の「作品」として書いたり、残そうとしたり、という欲が減ってきたのだ。


今、ぼくの中では「書くこと」に対して、変化が起きている。


これまでの、特にコピーライターをしていた頃のぼくにとっては「書くこと」は、自分の考えを表現することであり、社会に関わる唯一の手段であり、自分の力量を試す戦場でもあり、心を鍛える道場でもあり、生きる意味そのものだった。

それは、すごく神聖な行為だったのだ。

だから「書くこと」が仕事でなくなってから、かなり長い間、その神聖な行為に関わる機会を失ってしまって、ずっと苦しんでいた。

でも、その苦しい長い時間の中で、ぼくは「書くこと」以外にも人生には面白いことが色々とあることを知った。

地域の存続に貢献できることもあるし、もっといろんな人を喜ばせることもできるし、これからの世界の在り方について考えていくこともできる。

そして、そういうことに関わるには、やっぱり自分には「書くこと」が手段として一番役立つのだ、ということもわかった。

いろんなことをあれこれ試してみても、人から喜ばれるのは、結局、文章を書いたときばかりだったのだ。


これまで、ぼくは「書くこと」を人生の目的そのものだと思いたがっていたように思う。

そのほうがずっと楽だし、目的と手段が合致する時間というのは、自分が透明になれるというか、余計なことを考えずに夢中になれる、すばらしい時間だ。

ところが、実際は、ぼくは「書くこと」以外にも人生にいろんな目的を持つようになっていく。

恋愛をしたり、結婚をしたり、子どもを育てたり、家族を存続させるために金を稼いだり、そのために会社での評価をなんとか上げようとしたり、会社自体がうまくいくように願ったり。

まったくもって、生きるというのはなんと多くの目的を必要とするのか!

そんな中で「書くことは、生きること」なんて言い切るような勇気は、ぼくにはまったくない。

そうだ。

ぼくはずっと前から(それはコピーライターになるよりもずっと前から)「書くこと」は生きるための手段でしかない、とわかっていたはずなのだ。

それなのに、かっこつけて、あるいは人生の目的をさっさと見つけて楽になりたくて、「書くこと」こそわが人生の目的だと決め込んで、あとの面倒なことにフタをしていたのだ。


そんなプロセスを経て、ぼくにとっての「書くこと」は、やっぱり自分にとって特に大切なことには変わりはないけれども、しかし生きる目的そのものではなくなった。

あるいは、元々そうだったのだけど、そのことに気づいてしまった。

ぼくは「書くこと」という、か細くて頼りない武器と、ほんのわずかのそれ以外の道具を使って、現実という名のとんでもない化け物を相手にしているという、そういう状況を認めざるをえなくなったわけだ。


現実と戦うのは、とても辛くて、苦しくて、孤独だ。

しかしぼくはもう、この戦いからは逃げられない。

だから、あらゆる手段を持って、挑み続けるしかない。

その時、自分が一番頼りにしているもの、昔からずっと親しんできて、しっくりと手になじみ、いつだって知恵と勇気を授けてくれたもの、それが「書くこと」だというだけだ。


「書くこと」は手段でしかない。

だからこそ、遠慮なくどんどん利用して、バシバシ鍛えて、めちゃくちゃに使い倒して、どこまでも共に進んでいこうと思う。



このくだらない、クソみたいな現実に、命一個ぶんを賭けた一撃を食らわせるために。