自分の時間の、手に入れ方。



時間が、ない。



それは事実なのだけれども、それじゃ時間がたっぷりあれば事態は良くなるのだろうか。
まあはじめは喜んで、増えた時間をうまく使おうとするのだろうけれど、そのうち、まあこれだけ時間があるのだから、ちょっとコーヒーでも飲もうとか、本でも読もうとか、やはり文化的な活動も必要だとか、いや休息も必要だとか、ぼーっとする時間を取り戻さないととか、あれこれ考えはじめ、時間がなかったときよりもダラダラと毎日をすごし、結果的にもっと悪い事態に陥っていくような気もする。

なぜそういうことが起こるのかといえば、ぼくらは本当の意味で自分の時間を使うことに慣れていないからだ。

朝、決まった時刻に起きるのは、会社の始業時刻や、保育園の登園可能な時刻や、今日の最初の打ち合わせが始まる時刻が決まっているからであって、自分が起きたい時刻を決めて、起きたわけではない。

それだけではない。

電車がやってくる時刻、それが目的地に到着するまでの時間、会社に着いてから仕事に取り組んでいる時間、昼食をとってもいい時間、残業にかけてもいい時間、帰宅してから寝るまでの残り時間、ぼくらの時間のほとんどは自分で決めた時間ではないのだ。

じゃあ、どうすればぼくらは自分の時間を手に入れることができるのだろう。

結論から言うなら、そんなことはできない。

ぼくらには純粋な、自分だけの時間、なんてものは存在しないのだ。
どれだけゆったりとリラックスして、自分の好きな飲み物を前にして、以前から読みたかった小説を手にして、お気に入りの音楽をかけていても、それはすぐにやってくるバカみたいに忙しい日々を前にした、一瞬の休息でしかない。
あるいは、他に何もやることがない人であっても、やがて来るであろう人生の終わりの時は少しずつ迫ってきているわけで、その不安から完全に自由に解き放たれた、自分だけの時間なんてものはないのである。

だったらどうすればいいのか。

とても簡単なことだ。

その時間が他者から与えられたものであろうと、得体の知れない存在から規定されたものであろうと、その中で自分が納得のいく時間をすごせたかどうか、それだけだ。

自分が納得のいくように、考えつくすことができたか。

納得のいくように、言いたいことをすべて言えたか。

納得のいくように、知りたいことを調べつくせたか。

納得のいくように、ぼーっとすることができたか。

そして、納得のいくように、気に入らないことについて事態を少しでもマシにしようとしたか。



だから、ぼくが時間がない、時間がない、と言っているときは、つまりは、まだ全く自分が納得のいくような時間を味わうことができていないと悩み、もがいているときなのである。