幸せが、怖い。

 

 

 

 

あなたは十分に幸せだと思う。

 

 

 

そう人から言われたことがある。

自分ではそんなことは全く思わなかったので、そう言われても納得いかなかった。

それはぼくの人生をどう見たかによるのであって、ぼくがいかにダメな人間で、まずい状況にあり、長い停滞の中にあるのかは、ぼくになってみないとわからない。

そう思ったのだが、必要以上に反発したのは、今のような状態で幸せなんていうことはあってはならない、という気持ちが強く働いたからかもしれない。

 

もっと言えば、ぼくは自分が幸せだと思ってはいけない、と決めているような気がする。

 

過去を振り返るに、ああ自分は幸せだなあと感じたあと、必ずひどい目に合っていて、それは自分の油断、慢心、そういうものが原因なので、簡単に満足してはいけない、幸せだなんて思ってはいけない、そんな風に思いこんでるような気がする。

 

それじゃ幸せなんてものは不要なのかと言えば全然そんなことはなくて、日々の何気ない暮らしの中でたくさんの幸せが本当は満ちあふれていて、そういったものを感じながら生きることが人生を豊かにしてくるのだろう。

 

それはわかっている。

わかっているんだが、やっぱり幸せを身体いっぱいに感じることは、怖い。

そうなってしまうとすぐにぼくは今に満足し、努力をやめ、何か取り返しのつかないことをやらかすだろう。

ぼくが自分のことを幸せだと思うのは、最期の時だけでよろしい。

 

そんな風に思って生きているので、面と向かってあなたは幸せです、と言われると、そんなことは絶対にない、と反射的に拒絶してしまう。

自分が幸せなのかどうかは自分で判断するから結構です、と思ってしまう。

 

言ってしまえば、幸せなんてものは存在しない。

 

人間は年を取り、何もできなくなり、たくさんの人に迷惑をかけ、やがて無様に死を迎えるだけだ。

ぼくらは幸せに向かって生きて努力を続けているのではなく、死に向かって命を消費し続けているだけなのだ。

 

だからこそ、とぼくは思う。

幸せというのはある一定の状態を指すわけでもないし、達成するべき目標でもない。

このくだらない死への行進を、ちょっとはマシなものにしようとする悪あがき、そのプロセスの中にしか、存在しない。

それを少しでも楽しめたなら、まあよしとすればいいのだろう。

 

 

もし、幸せというものが仮にあるのだとしたらの話だが。