CDの整理を、していた。




音楽のCDは大量にあるけど全然聴いていないので、妻と一緒に整理して、いらないやつは売るか捨てるかしようと言っていた。



お互いに独身時代に同じものを買っていた場合はその対象になるのだけど、さてそれ以外のものを売るか捨てるかしようとなると、これがなかなか難しかった。

当時の流行りの日本のポップスとかはどんどん捨てちゃおうと思っていたのだが、いざ捨てようと思うと、やっぱりその頃の思い出とか気分とかがはっきりと蘇る感じがして、それが良い思い出だろうと悪い思い出だろうと、それはそれで大事だなあと思ってしまうし、そもそもそんなに邦楽自体たくさん持っていないのでわざわざ捨てる気にもなれない。

それじゃ逆に何度も聴いてて、大事だなと思うやつだけにしぼろうとするのだけど、逆に全然聴いていないやつのほうがジャケットだけ見ても思い出せなくて、さてどんなだっけといちいち再生しているとキリがなくなってしまう。

自分のCDだと全然判断できないくせに、妻が自分のCDを見せてきて、これってどう思う、と聞いてくるのに対しては、それは一時の流行りなだけでダサいから捨てたほうがいいとか、別にネットで聴けるからいらないんじゃないかとか、冷徹に言える。

ところがそう言われた妻のほうはその意見は気に入らないらしく、うーんでもやっぱり残しておく、という。

妻はいつも人に、これってどう思う、と相談するが、結局人のアドバイスを聞く前から自分の中に結論がある人で、はじめから捨てるべきかどうか答えを持っているからあまり意見のしがいはない。

彼女の話はだいたいはじめから結末が用意されていて、そこにたどり着くまで何があって、そこで自分が何をして、その場に関係した人たちが何を言って、というようなプロセスを巻き戻して再生するので、ぼくはそれを順を追って聞く以外に選択肢はない。

CDと違って早送りはできない。


妻はCDの山を、これは邦楽の男の人、これは邦楽の女の人、これは洋楽の男の人、これは洋楽の女の人、という軸で分類をはじめようとしている。

じゃあスウィングアウトシスターはどうなるのかとか、タックアンドパティはどうなるのかとか、タンザニア民族音楽はどうなるのかとか異議を唱えたが、無視して自分のCDたちを四つの山に分けはじめている。

ぼくもだんだんめんどくさくなってきて、早く子どもの宿題の丸付けもしないといけないので、ジャズ、ジャズ以外のポップスではないもの(インストルメンタル、クラシック、オペラ、タンザニア民族音楽)、それ以外、という乱暴な分け方であきらめて、あきらめの山たちを作っていったらジャズの山ばかりが高くなって、もう何もかもがめんどうになってしまった。

妻はまったくジャズを聴かない、好みが共通しているのはR&Bのほんの一部ぐらいなので、なんでそんなに「歌のない」CDがたくさん必要なのか理解されない。

ぼくはぼくで妻が、昔よくあったベストヒット30とかナウ40とかいうその時に流行った曲ばかり集めたコンピレーションを、だっていっぱい入っててお得やん、という理由で後生大事に置いている意味がさっぱりわからない。

人の好みというのは、まあよくわからないものだ。


子どもは子どもで、図書館で本を借りるときに、下の子はまだ小さいのでなんでも楽しそうに読むが、上の子ははっきり好みがあるらしい。

ある日、借りている本の期限が過ぎているからと図書館から叱られて、本人がいない間に、とりあえず返しにいって、ついでにぼくが代わりにいくつか本をピックアップして借りてきた。

小川洋子さんや、江國香織さん、宮部みゆきさんが青少年に向けて書いた短編集とかは、本人はまったく見向きもしなかった。

中村航さんという方の『オニロック』は面白かったらしい。

まあ自分のことを思い出しても、親から無理にすすめられた本というのは読む気がしなかった。

それよりも、母が自分が読む本として本棚に置いていたものを漁って読むほうが面白かったし、大人のために書かれた本のほうが、結末がハッピーエンドとは限らないぶんヒヤヒヤしながら読めたような気がする。


家族であってもそれぞれの好みがあるのだから、世の中に出て、まったく同じ好みの人に出会うなんてのはなかなか難しいだろうなあと今さら思うし、逆にまったく同じ好みの人がいたって、その人とあまりたくさんしゃべりたいこともないような気がする。


それよりも、相手と自分との違いについて話すほうがずっと楽しい気がする。