アホで、ええんや。





直感で、生きている。



なのにそれを隠そうとして、妙に理屈っぽく話したり、もっともらしい根拠を作ったりしていたのだけど、もうそういうのをやめたいなあと思う。

もともとぼくの持ち味というのは、めちゃめちゃ適当でアホなのに、たまにまともなことを言う、というところにあるのに、どうも年を取って、逆転してしまっていたようで、きっちりまじめに見えるのに、割と抜けている、みたいなまあまあアカンほうのギャップが生まれてしまっている。

さて一体どこでどうなって、そういうことになってしまったのかよくわからないけれど、この際、経緯はどうでもよくて、さあもうこんなクソ真面目なおじさんのフリした着ぐるみはさっさと脱ぎ捨てて、アホなおっさんで生きていこう、というのが今日の言いたいことの主旨である。

そもそも、アホなおっさんのほうが色々といいことがあるのだ。

まずは、自分がアホなことをちゃんと周りに伝えておけば、もっと賢い人の支援を得ることができる。

あのおっさんはたぶんあんまりわかってないから、ちゃんとアドバイスしてやらないとな、と思ってもらえる。

それから、相手が心を開いてくれる。

お前はほんまアホやなあと言いながら、他の人には言わないような本音をもらしてくれたりする。

そして、たまーにちょっとだけまともなことを言えば、あれ、意外とちゃんとしてるじゃないか、と思ってもらえる。

しかし本当に自分のアホを肯定することが大事な理由は、自分の知らないことに対して無防備で飛び込むことができることだと思う。

変に賢くいようとすると、知らないことに出会っても、ちゃんと勉強しないといけないから今日はやめておこう、といってずっと取り組まないままでいることが多い。

ぼくはそうやって、ずっと自分の知らないことを知らないままで放置してきて、目の前に好奇心を満たしてくれそうな面白い宝物が転がっていても、ずっと目をふさいできたように思う。

だけど、もういいじゃないか。

それが一体何かなんてよくわからなくたって、とりあえず触ってみたらいいじゃないか、足を踏み入れてみたらいいじゃないか、そして飛び込んでみてもいいじゃないか。

どうせ自分はアホなのだ。

アホは経験してみなくちゃ理解できない。

自分の手で触れて、固いかやわらかいか、痛いか気持ちいいか、熱いか寒いか、そしてつまらないか面白いか、自分の直感でたっぷりと味わえばいいのだ。

アホ、万歳。

アホで、ええんや。

ああよかった。