氷河期世代が、できること。




ニャートさんの、就職氷河期世代について書かれた記事を読んだ。



仮に、「負け組」が階層化していて抜け出すことが困難なら、「稼げるかどうか」を自己評価とする価値観を脱し、稼げなくとも自分なりの評価基準と幸せを追求していくしかない 例えば、日本一有名なニートであるphaさんは、いわゆる「勝ち組」と年収を比較して卑下することなど決してないだろう 自分が何を最優先するか(それは金銭ではない)、自分が何を幸せと思うかが確立されているから

就職氷河期世代どうしを分かつ自己責任論|7月31日ラジオに出ます - ニャート


ぼくもこの世代なのだが、ダラダラと大学時代をすごしていたせいで留年し、そのおかげで一瞬だけ景気が良くなった時期にたまたま巡り合って就職できただけなので、ぼくは氷河期世代に就職した、とか胸を張って言える感じではまったくない。

ただ、ぼくはかなり早い時期から「稼げるかどうか」以外の価値を探し始めていたようには思う。

不況の真っただ中、おまけに神戸の震災の時期に青春時代を送っていて、周りの知人友人が不幸になってしまう様子を目の当たりにしたこともあるし、進学校に入学してからすぐに落ちこぼれてしまって、そもそも競争の中で勝ち抜くための戦意をさっさと失ってしまったからでもあるだろう。

まずは短絡的に、他人と違うことをやろう、という発想になる。

なるけれど、そもそも他人と違うことをやろう、と思っている時点で他人の立ち居振る舞いが判断基準になってしまうから、結局は他人が気になってしかたがない。

ガリ勉の進学校にしては話がわかるじゃないかとか、ガリ勉の進学校にしては音楽に詳しいじゃないかとか、まあその程度のことしか考えていなかった。

本気で、「稼げるかどうか」以外の価値を求めて、将来どんなことを仕事にしようかと考え始めたのは大学生の頃で、しかしそこでコピーライターという仕事を自分の中で「発見」したのも、そういうものを目指している人間が周りにいなかったからというのも大きかった気がする。

ところがコピーライターの学校に通い始めると、先生の多くが、他人にはない視点を手に入れろ、と言うわけだ。

また「他人」が登場するのだが、しかしこの考え方はぼくにはしっくりきて、普通はこう考えるよな、だからこそ俺はこういう風に見るんだ、というような姿勢が妙に身についてしまった。

ぼくのそういう考え方のクセみたいなものは、まあもともとあったのだろうけれど、そこで大手を振って肯定できるようになってしまったので、他人と違う視点を、他人と違う発想を、といつも他人を強烈に意識しながら、そのうえで自分らしくやってやろうと、さてこれが本当に自分らしさなのかどうか、よくわからない。

よくわからないけれど、今ももちろん他人のことはひどく気になるのだが、今一番ぼくが求めているのは、そんな感じでずっと自分の心を強くつかみつづけてきた「他人」のことなどどうでもいいと思えるぐらいに夢中になれる瞬間かなあとも思う。

じゃあどんな時に夢中になれるかということについては、だいたい目星がついていて、簡単に言ってしまうと、自分がやったことのないことをあれこれ妄想し、計画し、実際にやってみて、あれ失敗したとか、おおうまくいったとか、そういう時が一番夢中になれる。

なんだ、そんなの誰でもそうじゃないかと言われそうだが、まあ誰でもそうなら余計にそれが真実に近そうだから、それでいい。

とにかく重要なのは、「自分で始める」ということなのである。

これがサラリーマンには意外と難しくて、なぜならたいていの場合、物事というのは自分をスタート地点としては始まらないからだ。

ただし、たしかにその物事は自分発のものではなくても、それを自分の都合のいいように解釈し、ついでに会社にとっても都合がよいものだと翻訳し、ほとんど自分起点での仕事に変えていってしまうことだってできる。

もちろん、これは別に仕事に限った話ではない。

どんな場面においても、自分から何かを始めること、これがぼくにとっては一番尊いように思う。

それが「稼げるかどうか」に発展するかどうかはまったくわからないけれども、そうなる可能性だってもちろんあるだろう。

そもそも、まず何かを始めなければ「稼げるかどうか」を判断することさえできないのである。

とまあ、人生を振り返ってみるに、やっぱり「稼げるかどうか」とか「他人と違うかどうか」とかに振り回されてきた前半だったが、なんとか後半はそのあたりから自由になれるといいなあと思うし、なんとなくいけそうな気もしている。

まあ、なんとなくだけれども・・・