写真が、苦手です。




昔から写真が苦手で、撮るのも苦手、撮られるのも苦手、あと撮ったものを保存したり整理したりするのも苦手、とにかく写真に向いていない。



それでも家族で出かけるときは写真は撮ってほしいと妻が言うのでカメラを持ち歩くけど、本当はそれも面倒でしかたなく、よく持って行くのを忘れたりもする。

それじゃもう写真とは無縁の暮らしをしたほうがいいんじゃないだろうかとも思うが、厄介なことに写真を見るのはそんなに嫌いではない。

子どもが楽しそうに遊んでいる姿や、妻の美しい笑顔(ぼくの妻は一般的に言って美人である)が写っている写真を見てニヤニヤするのは決して嫌いではないのである。

ROM専なんていうけど、もうぼくは写真に対しては完全なROM専である。

それでいうと、音楽もそうだし、映像もそうだ。

クリエイターというキャリアを絶ってしまってからは、おおよその表現方法に対して受け身になってしまった。

唯一書くということだけはこうやって細々と続いているものの、最近は小説を読んでいても、ああ自分だったらこう書くのになとか、こういう書き方はマネしたいなあとか、そういう野心を持った読み方をすっかりしなくなってしまって、ひたすら一読者として内容を楽しんでしまっている。

そういう意味では、ようやく呪縛から解放されたのかもしれない。

昔は、自分と年の近いクリエイターは、コピーライターであれアーティストであれ作家であれ、自分よりも活躍している人はすべてうらやましく、嫉妬の対象だった。

自分も彼らと同じように若くして才能をキラキラと輝かせている予定なのにと、そう思うたびに胃の奥がキリキリと痛くなった。

もちろん今でも彼らを素直に称賛できるほど大人になれているわけではないけれど、それでもいいものはいい、とはっきり思えるようになった。

それにしても、あれほど何かを生み出さなければと必死になり、周囲の成功に気が狂うほど嫉妬し、寝食を忘れて没頭していた情熱、あるいは執着はどこに行ったのだろうと考えるに、しかしぼくはちゃんと何かを生み出すことができていると思えるからかもしれない。

まったく不十分な貢献ではあるけれども、なんとか家族はにぎやかにやっているし、素晴らしくクリエイティブとはいえなくても新しい仕事を作ることに挑戦できているし、未来について堂々と考える機会をたくさん持つことができるようになった。

いま、堂々と、と書いたけれど、なんで未来について考えるのに堂々と、なんてわざわざ書いたのかよくわからない。

よくわからないが、若い頃のぼくは、未来について考えることがなんとなく怖かったのかもしれない。

ひょっとして才能が十分に育たなくて、クリエイターとして大成できないのではないか、とか、あるいは結婚して守りに入り、あの唾棄すべきつまらないおじさんサラリーマンとなってしまうのではないか、とか、いろんなことが怖かったのかもしれない。

実際にその予感のとおりになってしまった今となっては、当時の自分に対しては大変申し訳ないと思う一方で、しかし、堂々と未来のことについて、子どもの学費をどうしようとかローンをどう返そうとか、若いぼくが心から軽蔑していたことについて具体的に心配し、だからこそちょっとでも自分が死んだあとも世の中が続いていくためにできることは何かと割と真剣に考えている人生の後半戦というのもなかなか楽しく、そしてあの頃よりもずっと自由で、リラックスしているということは、若いぼくにはわからなかっただろうなあと思う。

あの頃は過去を振り返ることが大嫌いだった。

すべては輝かしい未来を作るために存在し、終わってしまったことについて考えるのはまったくの無駄だと思っていた。

ところが最近は過去の写真もじっくりと見る、ニヤニヤしながら見る。

ぼくはぼくなりに必死に生きてきて、嫉妬にかられながら、不安で頭をいっぱいにしながら、なんとか生き抜いてきて、だからこそ自信を持って振り返ることができるのだ。

だから、ぼくはあの、とにかく不器用に、命を削るようにして生きてきた若い頃のぼくにまったく頭が上がらない。

彼がつかみたかった夢とは、かなり違った形になってしまったが、しかし、その歩いてきた道を振り返ってニヤニヤしていられるぐらいには十分に素晴らしい人生を生きることができた。

まあそんなことを彼に言ったって信じてもらえないだろうし、むしろ余計に不安になってしまうだろう。

ただ、ひとつだけ伝えることができるなら、伝えたいことがある。

それは、自分の手でちょっとでもマシな未来を作ろうとする彼の姿勢は、年をとって老いた今でも、まったく変わっちゃいない、ということだ。

だから、安心して進んでいけばいい。

あとで、自分の歩いてきた道を、ニヤニヤしながら振り返るのを楽しみにしつつ。