震源地近くで、感じたこと。



月曜日の朝、大阪で地震が起きたとき、ぼくは震源地の近くにある自宅で、保育園に行く前、次男に朝ごはんを食べさせているときだった。



下から突き上げる感じの揺れがあって、高校生の頃に阪神での震災を経験しているので、揺れ始めたときに、ああまただ、と思った。
もうこういうのは勘弁してほしいと、まだ揺れている最中に思っていた。

揺れが収まってからは、先に家を出発してしまっていた妻と長男の無事を確認し、会社からの安否確認に返事をしたあと、学校から子どもを迎えに来れる方は来てくださいという連絡が携帯のメールに来たので、さてどうしようかと妻と連絡を取り合いながら協議した。

長男は普段は電車に乗って通学している。
これも阪神の震災時の経験上、こんな揺れ方をしたら、ただじゃすまないだろう、交通機関は当然動いていないだろう、と思ったので、迎えに行くなら車だ。
おそらく同じような考えで車に乗る人が殺到するだろうし、そうなると本当に急いでいる人の邪魔になってしまうかもしれない。

そこで初めてネットやテレビでニュースをちゃんと確認した。
どうもまだあの時ほどひどい状況ではないようだ。
それで、飲み物や食べ物を色々とリュックに詰めて、車で出発することにした。

出発前に会社のメールを見ると、今日の打ち合わせはどうしましょうとか、午後の得意先への提案はどうしましょうとか、とにかく今から会社に行きますとかいうピントのずれたメールがたくさん入ってたので、そんな状況じゃないので全て中止してください、今から出社しようとする人は自宅待機か危ない場合は避難所へ行ってください、自分と家族を最優先にしてください、という返事をひとつずつ送り、ひどく疲れた。

予想していたよりも道はずっと空いていて、スムーズに迎えにいくことができた。
小学校の先生たちはみんな車の誘導や安全確保のために動き回っている。
自分の家族のことも心配だろうに、大変な仕事だと思った。

長男は普段はギャーギャー言っているが、意外とこういうときは動じない性格のようで冷静だったが、まだ親が迎えに来ていない数人の子どもたちは少し不安そうな顔をしていた。
ぼくんとこまだ迎えに来ないのかなあと言っている子がいたので、大丈夫や、いま電車が動いていないからすぐに迎えに来れない状態やねんで、お父さんもお母さんも仕事に行ってしまってたらすぐにこっちに来れない、おっちゃんはたまたま家を出るのが遅かったから早く迎えに来れただけや、ちゃんと待ってたら必ず来てくれるからあせらんでええねんで、全然大丈夫や、と肩や背中を叩いてやりながら話すと、そうか、ほな仕方ないな、とちょっとだけ落ち着いた様子だったが、やっぱり表情は固いままだった。

帰宅して、妻に状況を連絡すると、彼女もやるべきことは一通り終わったので歩いて帰宅しようかなと返事があり、さすがにそれは時間がかかるから車で迎えに行くことにした。
今度はもう渋滞が始まってしまっていて少し時間がかかった。
ただ、Google Mapsのナビはかなり正確で、うまく迂回路を通っていけたので、だいぶマシだったと思う。
無事に妻を車に乗せたとき、ようやく家族が全員回収できたと、ほっとした。
再び帰宅したときには16時を過ぎていた。

まったくこんな状況で、午後の得意先への提案を心配するなんて不思議な発想だなと思ったが、震源地からちょっとでも離れているとそういう実感が沸かないのだろう、自分だって状況が違えば、午後のプレゼン資料が揃っていないことにヒヤヒヤしたりしていたのかもしれない。

夕食は手を抜きたがらない妻だが、この日はスーパーで買い集めた総菜をテーブルに並べてみんなで食べた。
今日は久しぶりのパーティー形式やなと長男はうれしそうだった。
次男はちょっと地震が怖かったようで、今日は小さなクマの人形と一緒に寝たいと言っていた。
ああ、ぼくにとって大事な人の最小単位はこれなんだなあと感じた。
ひょっとしたらこういうときにも必死に十何キロも歩いて出社して、会社の中でやるべきことを何かやったほうが評価されるのかもしれないが(上司はそうしたらしい、そして結局何もやることがなくてまた十何キロも歩いて帰ったらしい)、そんなことは本当にどうでもよくて、ただ、この人たちと一緒に生きていたい、そう思った。

地震では、長男と同じ年齢の小学生が亡くなったという、とても悲しく、想像するとあまりに辛すぎて、想像しきれない。

ぼくはいつも、自分の子どもたちのことが心配で仕方がない。
それが今のぼくの弱さになっていると感じる。
少しでも子どもが安心して暮らせる生活にしたいと思うあまり、仕事でも臆病になり、他人の評価ばかりを気にしていて、つまらない人間になっていると感じる。
しかし、ぼくがどんな人間になろうが、それは自分で選択していることだ。

でも、自分の選択や努力では全くどうにもならないような辛い出来事には、もうどう向き合っていいかがわからない。
そういうことが人生では起こる、ということを自分のこととして受け入れられるだろうか。
でも、自分のこととして向き合うしかないだろうか。

よくわからないし、わかりたくもない気もする。
しかし、それも生きていくことの一部のようにも思う。

よくわからない。