今の世の中には、やりたいことを見つける能力自体に格差があるのではないか、というid:lets0720さんの記事を読んだ。
近年、富の格差や教育格差の深刻さが叫ばれているが、それ以上に深刻なのがモチベーションの格差ではないかと思う。どれだけ所得があっても、どれだけ高度な教育を施されても、そこになんらかの動機を見出せなければ、生きる気力を維持できない。
http://www.sekaihaasobiba.com/entry/2017/12/03/172040
やりたいこと、モチベーション、動機、これらはそれぞれ微妙に違うようには思うが、とにかくそういうものを持っていないと生きていけない、というのは事実ではなく、言説にすぎない。
別に特別何かやりたいことがなくても、ただ生きたい、とにかく死にたくない、だから生きてる、というような生き方だってある。
問題は、やりたいこと、自己実現、夢、そういうものがないと生きてる意味がない、という文脈を受け入れて暮らしているかどうか、ということじゃないだろうか。
もっと言えば、ぼくはこういうことがやりたくて生きてます、と他者に表明できるようなものを持つべきだという文脈である。
社会貢献をしたいです、困った人を助けたいです、世界中を笑わせたいです、職人として道を極めたいです、家族を守りたいです。
しかしやりたいことというものは必ずしも他人に言えることとは限らない、女の人の足の裏を嗅ぐのが夢だという人もいるだろうし、社会に影響を与えたいと思っていても口に出すのは恥ずかしくて絶対に言えない、という人もいるだろう、だからこの「やりたいこと表明ゲーム」に参加できるのは、自分のやりたいことを社会的に承認される形で納められる限られた人たちだけなのだろう。
それじゃこのゲームに参加できない人は指をくわえているしかないのか、と考えるに、それじゃあ時間がもったいないので別のゲームを始めてみるのもいいのかもしれない。
たとえば、やりたいことをあえて隠して、それを当て合うゲームだってあるんじゃないか。
恋愛がそうである。
お互いのやりたいこと、つまり相手と一緒にいたいという願望が同じかどうかを当て合う、そういうルールのある遊びだ。
あるいはスポーツやテスト勉強は、やりたいことを勝ちたい、生き残りたい、というものに統一してしまって、そのプロセスを競い合う遊びだし、そのあたりがより高度になっていけば文化とか芸術とかになっていくのかもしれない。
そしてブログは、特にやりたいことがなくても、自分の気持ちや考えや日々の記録を他者に発信することができる。
やりたいことがない、ということ自体を書くネタにできるのだ。
そう考えると、ぼくらは思っているよりも色んな方法をすでに手にしていて、社会的に承認されたやりたいことしか言ってはいけない世界から自由になれるだけの力を十分に持っている。
ただ、そういう視点自体を持てるか持てないかにも格差がある、といえばそうなのかもしれない。
しかし、だからこそ世界には本があり、マンガがあり、映画があり、言葉があるんじゃないだろうか。
世界には、やりたいことなんかなくたって、いくらでも生きる喜びを味わう方法があふれていることに気づくために。
それは誰か、同じような悩みにぶつかってきた人から、あなたにあてたメッセージなのである。