人はいつ、何者かになれるのか。


中学の頃に塾の先生にアイデンティティ、あるいは自己同一性という言葉を教わって、ちょうど君たちはそういうものについて考え始める時期だとかなんとかそういうことを言われたような気がする。



思春期に触れる新しい言葉、面白い考え、知らなかった視点、そういうもののほとんどをぼくは塾の先生たちに教わって、それは授業の内容と密接に関係していた場合もあったし、彼らがちょうど研究していたり、あるいは個人的に関心があることを雑談、脱線として話してくれた場合もあったと思う。

塾の先生の多くは大学生や大学院生で、会計士や弁護士を目指している人や、なにやら難しい研究に取り組んでいる人や、まだまだ遊び足りなくてフラフラしている人や、いろんなお兄さんお姉さんが、それぞれの熱意や打算をもって受験勉強の指導を行うわけであるが、彼らこそそうやってアイデンティティを求めて暗中模索していたのである。

今でも中学生は学習塾での先生の雑談の中でアイデンティティという言葉に出会うのかどうかはわからないし、ひょっとしたら当時の流行のテーマでしかなくて、今はもはやアイデンティティなんていうことはたいした関心事ではないのかもしれない。

それでもいまだに、自分は何者にもなれないとか、何者にもなれなかった自分はとか、そういう言葉を時々見かけると、さてぼくは何者かになれただろうかと自問してしまう。

人生後半戦に入ってみて思うのは、この問題はおそらく生きている限り永遠に続いていくものだろう、ということだ。

運よく、自分が欲しかった、思い通りの自分を手に入れることができたとしても、それを手にし続けることはなかなかできない。

若い頃の感度や運動能力はすぐに低下するし、会社での地位が安全とは限らないし、愛する人との突然の別れは絶対に訪れないとは言い切れない、結局、本当の自分、思い通りの自分、何者かになれた自分、そういうものは手に入れた次の瞬間には失われ、また人は自分が一体誰であるかということについて悩むようになる。

ただ、そこには若い頃とは大きな違いがあって、それはどうせアイデンティティなんてものはまたすぐに失われるものなのだ、ということを知っているかどうかという違いで、それがわかっていれば大きく動揺しなくなって、さて困りましたね、まあ仕方ないので次の自分をぼちぼちと探しはじめましょうかね、という態度を持てるのだろう。

そんな感じでぼくは引き続き年を取っていきたくて、あいつのアイデンティティなんてもうどうでもいいじゃないか、そんな年じゃないだろ、と周りから言われるようになっても、やっぱりみっともなく何者かになろうともがいていきたいなと思っていて、むしろそういうことは卒業したからとかっこつけて無理に現実の厳しさを突然語りだすにわかハードボイルドになろうとするほうが、あとで苦しくなるんじゃないだろうかと思っている。

うじうじ悩むことがダサい、くよくよ後悔することがヘボい、いちいち立ち止まることが歯がゆい、なんとなくそういう空気を感じることがあるし、自分がそっち側にいる場合もあるのだけれども、やっぱりぼくはうじうじ、くよくよ、いちいちダメージを受けながら、何者にもなれない自分を嘆き、しかしあきらめきれずに未練たらしく自分という存在にしがみついていきたいなあと思う。

たしかに現実は厳しいかもしれない。

しかしそれは他の誰かエライ人の現実であって、ぼくにとっての現実は、ぼくの小さな手の中にゆだねられているのである。