若い頃、句会に呼んでもらって、形式は自由でいいという話だったので、こおろぎは俺が俺がと鳴いているのだ、というのを出したら、主催者の方に、のだ、というのがもったいない、のだ、がなければええのになんで付けるかな、のだ、と言われて、そのとおりだなと思ったのだが、いまだに、のだ、の呪縛からは離れられないらしく、ぼくのブログのタイトルにはしっかり、のだ、が付いている。
のだ、というのは、ぼくにとっては「ヨッ」とか「オッ」とかいう合いの手みたいなもので、一人で語っていくときに誰もそれをやってくれないから自分でやっているだけのようにも思う。
合いの手が欲しい時というのは一人で進めていくのにちょっと自信がなかったり、勢いづけていきたい時だから、歴戦の猛者がひしめく句会に一人で乗り込むには、のだ、の手を借りたかったのだろう。
ブログも同じで、やっぱり一人きりで魑魅魍魎がうごめくインターネットに乗り込むには、のだ、に背中を押してもらいたかったのだろう。
それじゃ、のだ、としばらく距離を置いてみたらどうなのだろう、とも思って
・こおろぎは俺が俺がと鳴いている
・犬だって言いたいことがある
としてみて様子を見るに、なんとも心もとない立ち姿ではある。
こおろぎも犬も、なにやら不安げで、胸の中に何かつっかえてるものがあって、しかし自分の力ではなんともならず、仕方なしに今の姿勢のままでいる。
なので、見ているほうも心配になってきて、それでこれからどうするの、と合いの手を入れてやらなければいけない気がしてくる。
このあたりがたぶん大事なところで、つい自分で合いの手を入れて進めてしまいそうなところを我慢して不安定な姿勢でいれば、別の誰かが「ヨッ」「オッ」「アーソレカラソレカラ」とやってくれるかもしれず、仮に助けが得られなくて、ああもう倒れるかもなというところまで行ったとしても、そういう状態になってみて初めて出てくる次の一歩、というのがあるような気がする。
・こおろぎは俺が俺がと鳴いている
でも本当にそれが正しいと、こおろぎは思っているのだろうか。
・犬だって言いたいことがある
でも本当にそれを言うべきかどうかは、よく考えたほうがよいかもしれない。
ぼくはついつい、のだ、の力を借りて、手を差し伸べようとしてくれる人に対して、あいやけっこう、一人で歩けますから、といちいち断って進んでいこうとするが、そうじゃない進み方というのもあるのだろう。
まあよく考えてみれば、自分の言葉というのは、誰かから預かって、また別の誰かに渡すまでの間の何かでしかない。
他の人に渡ってこその、言葉だ。
後生大事に、これは自分の言葉な、のだ、と抱きかかえていたってしかたがない。
こおろぎは、自分の命を次の命につなぐために鳴いている。