インターネットでの暮らしが、自由になってきた。

 



やれこれからは写真だ、これからは動画だ、これからはVRだとかいって、技術の進歩と人々の関心がものすごいスピードでもって、別のところに移っていってくれたおかげで、長い文章を書いてもやたらめったら中傷誹謗を受ける機会が減ってきたように感じる。

 

人間にはそれぞれに合った表現方法というものがあり、ぼくにとってはそれが上手か下手かはさておき文章がそうなので、いまは適度に読んでくれる人もいて、適度に無視してくれる人もいて、ちょうどいい湯加減になってきた気がする。

もちろんとても元気があって目立ちたい気分になったり、あるいはどうしても伝えたいことがあったりする場合は、他の手段を取ることもできるし、あるいはわざと過激な論調で書けばそれが達成される場合もあるだろうけど、それはまた別の話だ。

ではなぜ文章を書くのかといえば、最近思うのは、さっき言ったような人々や世の中の極端な関心の変化のスピードと、それにともなってものすごい勢いで発生し続ける情報の洪水に押し流されて死んでしまわないようにするためだ。

体力のある時はこの洪水の中を泳ぎ抜いて、波の先頭に乗って一気に遠くへと移動することもできるだろうけど、いつだってそういうわけにはいかない。

また最近は、個人という概念自体が想像の産物であって、変化し続ける共同体なり集合体なりを主人公ととらえたほうがわかりやすいという話も聞くが、そういう視点で世の中を見つめたとき、ぼくら1人1人の生命は、日々死んだり生まれたりを繰り返す細胞のひとつにすぎなくて、その生き死になんてどうでもよく見えてくるように思う。

少なくとも、情報の大海の中に、ちょろっとなんらかの記事を投げ入れて、それがちょろっと断片的に誰かに摂取され、すぐに忘れられ、何もなかったことになる、そんな状況の中では、ぼくらの存在というのは、本当にどうでもいいものなのだろう。

 

しかし、だからこそぼくは文章を書くのである。

 

自分は一体どのようなことについて疑問を持っていて、どのようなことを大切にしていて、そしてどのようなことについて期待をしているか、そういったことを書いていくことで、自分という存在と、泳いでいきたい方向をはっきりとさせるのだ。

自分のために、書くのだ。

 

もちろん、書くことは、自然科学からすればとても不正確で、非効率で、未成熟な手段だ。

本人の思いこみ抜きで、世界をありのままに描くことはできない。

ありのままだって?

そんなものはくそくらえだ。

ぼくが見た世界は、ぼくの思いこみという分厚いレンズを通して、大きく歪み、様々な色彩がつけられ、ありのままのそれとはまったく違うものとして映る。

そんな世界を写し取った文章を、そっくりそのまま受け取るほうがどうかしている。

しかし不自由な世界では、それはそっくりそのまま受け取られ、おまけにまた別のレンズを通してさらに歪められ、予想もつかない形で書き手のところに戻ってきて、凶暴な歯をこちらに向け襲いかかる。

 

もちろん、完全に自由な世界なんてないし、もしあったとしたらそれはとても退屈なものになるだろう。

適度に不自由で、適度に自由な世界、それがもっとも心地よい環境だろう。

少なくとも今ぼくが置かれているインターネットは、ちょうどそんな感じになってきたように思う。

 

 

だからこれから、ぼくはもっと自由に文章を書こうと思う。

書きたいときに、書けるぶんだけ、書きたいことを書こうと思う。

 

 

書くという不正確で、非効率で、未成熟な手段によって、人間という不正確で、非効率で、未成熟な存在の喜びをたっぷりと味わおうと思う。