終電近くの電車に乗って、月曜日だったせいか車両は空いていたので首尾よく座れたのだけれど、途中から酔っ払いでおまけに体格の良い若者たちが3人わざわざぼくの座席の前に立って大きな声で話し始め、おまけにこっちにフラフラと寄りかかりそうになっている。
大声で無理やり聞かされる話の内容がまたまったく面白くない。
人生というのは帰りの電車でさえ簡単にはいかないものだなあと思いつつ、しかしこの人たちにはこの人たちのルールがあり、彼らの中では見知らぬ中年サラリーマンに気を使うよりも、電車の中で大声で先輩に対して後輩はいかに礼節を重んじる必要があるかについて議論することのほうが重要なのである。
いま彼らを動かすことができるのは、その先輩と後輩の関係性に関わる場合だけなのだろう。
ぼくは無意識のどこかで、人というのはだいたいはなんらかの権力か、あるいは一定のお金によって動くんじゃないだろうかと思っていたりするが、実はそんなことはまったくなくて、仮に3人を、ちょっと静かにさせて、ちょっとジッとさせるためにお金を握らせていても、なんの進展にもならない。
それは自分だってそうで、顧客や経営者の言うことは聞いても、何の関係もない人からのクレームに耳を貸すことはない。
そうやってぼくらは目に見えないルールを重んじて、目の前の他人を風景として扱っている。
そんな状態の人の行動を、全くの他人が変えるなんてのは、ひどく難しいことだ。
できるだけ多くの人に動いてもらうためには、どうすればいいか。
たぶん、できるだけ多くの人を知ることだろう。
その人の喜び、怒り、悲しみ、そういったことを知ることだろう。
その人が大切にしているものを知ることだろう。
そうすることで、その人は赤の他人ではなくなるからだ。
なんてことを思いながら電車に乗っているとそろそろ自分が降りる駅だ。
ガタイのいい若者たちに、すみません降ります、と頭を下げて、それでもなかなか動かないので押しのけるようにして立ち上がる。
人に関心を持つのも、難しいものだ。