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世界は身体で、できている。

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冷蔵庫の中のアイスコーヒーを取り出したら、仕事してる人の背中に当たらないように横ばいで、隣にあるわずかに突き出た板まで移動し、その上でコーヒーをグラスに注ぎ、また横ばいのままでアイスコーヒーを戻しにいく構造になっている職場で働いていたことがあった。



たまたま職場にやってきた客が自分でやるから気遣い無用と言って、アイスコーヒーを入れに来て、しかしそれがなかなかの技術を要することを知って、ひどくあきれたような、しかし申し訳ないような顔をしていた。

その職場には他にも施錠する際に微妙にノブをひねった状態でないとカギがかからない扉があったり、ある部分に急に体重をかけると動かなくなるエレベーターがあったりして、色々な身体的工夫を要するのだった。

ぼくは非常に運動神経が鈍いので、日々ただ自分がその職場に存在し続けるということだけでもひどく苦労したのだが、よく考えてみればわが家だってそんなに変わらなくて、狭い玄関で何人も同時に靴をはけないから必ず誰かが先に靴をつっかけたまま廊下に出なくちゃいけないし、炊飯器を炊きながら電子レンジをつけるとブレーカーが落ちるので、落ちないほうのコンセントのある床に重い炊飯器をわざわざ置き直して炊かなくちゃいけないのである。

イタリアに行った時、車が何列にも重なって路上駐車している場面を見かけたが、その一番奥に止めてる車は一体どのように出るのか聞いたら、前と後ろと隣とを順にバンパーで押し出して退路を作っていくのだという。ついにその作業をしている現場には出くわすことはできなかったけど、運転が苦手なぼくからすれば地獄のような国だなと思った。

一方で、上質なサービスみたいなものは、そういう個人の身体的な技術を強要しないものだと思いがちだが、ぼくは何度も一流ホテルの中の従業員が使うスペースに出入りしたことがあって、そこはもうちょっとマシにしたらいいのにと思うぐらい極端に狭くて古くてごちゃごちゃして、みんなそのすきまを曲芸みたいにすごいスピードで通り抜け、数ミリ単位で互いの接触を避けてすれ違いあいながら、利用客が思うところの上質なサービスを提供しているのである。

いやいやそういうのは人間がやるからダメなんだ、完全にシステム化すればよい、と言う意見もあるだろうけど、そういうシステムを構築するために優秀な人間が必要なのはもちろんのこと、そのシステムがちゃんと動き続けるように見守るためにも人間が必要で、よりちゃんとしたシステムにしようとすればするだけその人数は多くなる。知り合いのプログラマーが言うには、良いプログラミングというのは自分以外の人間が見てもすぐにわかって簡単に修正ができるものらしいが、ということは結局は人間がそれを直し続けることを前提にみんな働いているわけである。おまけに、そういうきれいなコードを速く書くには知識だけではなく絶え間のない訓練が必要らしく、これも身体術の一種じゃないだろうか。

あるいは政治家なんかも、同時に色んな人の話を聞いたり聞いたふりをしたりする技術や、何か一つのものに集中しながらも、ぐるりと四方八方に気を使うことができる特殊な身体術の使い手であり、一人の人物の中をさまざまなプログラムが一度に並行して走っている感じは、妻が夕食を何品も同時に作ってしまえるあの感じと、なんとなく似ているような気もする。

そう考えると、この世の中というものは、何か特別に悪質な人物なり究極に頭の良い人間が陰で牛耳っているわけでもなく、人工知能によって操られているわけでもない。世の色んな人の卓越した身体術の賜物なのではないだろうかと思う。

週末になるとぼくは息子をプール教室に連れていき、彼のレッスンが終わるまで、若い先生たちがクロールや平泳ぎの正しいやり方を丁寧に教えてくれるのをぼんやりと眺めている。先生たちは男女問わずみな美しい筋肉を備えていて、それをちょっと動かすだけで、いとも簡単に水の中を大きく進んでいく。彼らの素晴らしい身体術を目の前にすると、運動神経のひどく鈍いぼくは、水しぶきのかからない二階の安全なベンチから、ただ憧れとあきらめの混じったため息をつくしかないのである。