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犬だって言いたいことがあるのだ。

ものごとをひとつ先に進めるヒントについて考えています

つごうのわるい、はなし。




共創、という言葉をわざわざ使うのはあまり好きではありません。



ぼくはいまミンチカツを買うためにコロッケ屋さんで並んでいるのですが、そうやって並ぶという行為によって、コロッケ屋さんの、あの夕食前のにぎわってる情景を作り出すことに参加しています。

それを見て、あら私も買おうかしらという人がいたり、あるいはもう夕飯時だと足を速める人がいたり、そうやってよくある平凡な町の夕方の空気を作り出すことにも参加しています。

わざわざ、共創、なんて言葉を持ち出さなくても、ぼくらはそんな感じで、企業とも地域ともちゃんと関わって、何らかのものを生み出しながら暮らしているわけです。

ただ、なんだよ、オレはそんなつもりじゃないし、そんな形で店の売り上げに協力するなんてごめんだぜ、と思う人もいることでしょう。

たしかに、ミンチカツを買うのも、ミンチカツを受け取るために並ぶのも、自分の意志で決めたことだけれど、それが周りにどんな影響を与えるかまで考えていたら、ミンチカツひとつ食べるにもひと苦労です。

だからぼくらはお互いの行動について、見て見ぬふりをすることで、できるだけ楽に毎日をすごせるようにしているわけです。

ここが大事なところで、見て見ぬふり、も他人との関わりかたのひとつの工夫であり、選択なのです。

選択、といってもそんなおおげさなことじゃなく、お互いにとってちょっとでも居心地よく、ちょっとでも良い方向になるように、ちょっとした行動を選んでいるだけです。

それをさあ共創だ、なんて言い出す人なり組織が増えてきているのだとしたら、何か状況が変わってきているのかもしれません。


人と関わるのはとても面倒です。

だけど、みんなわざわざブログを書いたり、ツイッターでつぶやいたり、色んなネットワークを使って、その面倒なことに積極的に参加していく。

人と関わるのは楽しいからです。

さて、いったいどっちが本当なのか。

ひょっとしたら、ぼくらは心地良い関係だけを選び、そうではない関係を切る、そういう考えに慣れてきているのかもしれません。

しかしそうやって取捨選択を繰り返すことに慣れすぎて、ひとつの関係についてそれを改善しようとしたり、より楽しいものにしようとしたりすることをあきらめているようにも感じます。

少なくとも、ぼくには心あたりがあります。

ぼくがなんとなく共創という言葉を素直に受け入れられないのは、そのへんのことを無視して、自分たちの都合のよい部分だけを見ようとしているように感じるからかもしれません。

なんとなく気まずい間柄になってしまっている相手や、一緒にいるとなんだか居心地が悪い相手との関係がどうやったらマシになるのか、について考えることが、いまのぼくには大切なように思うのです。

そろそろ、都合のわるい話から逃げちゃいけない。

とはいえ、まあこの問題はすぐには解決するものではないので、ゆっくり考えていきたいと思いますし、ゆっくり進めていきたいと思います。

では今日はこのへんで。


ミンチカツが揚がったようですので。