わからない、ということをわかりなさい、と最近教わった。
ぼくはそれを、つまり自分がわかったつもりになると何も吸収できなくなるから気をつけなさい、という程度の意味だと思ったのだが、どうもそれも間違っているような気がしてきた。
おそらく、すべてが「わかった」という瞬間なんて永遠に来ない、というようなことなのだろう。
答えがわからないと、人は不安になるし、本当に自分の選択が正しいのか心配になる。
だからさっさと答えを知ってしまいたくなる。
それを我慢して、霧の中を進んでいくことはできますか。
そういった意味なのだろう。
ぼくはこれまで、やたらと答えを出すのを急いでいた。
そうしなきゃバカにされると思っていたし、知らないことを知らないままでガマンすることが苦手だった。
とにかく早く結論を出して、実際の行動に移し、間違っていたら修正すればいい、そう考えていた。
だけど、そうやってあわてて出してきた答えがすべてとは言わないまでもおおむね正しいのだとしたら、さていま色々と悩んでいる状況も、想定の範囲だったのだろうか。
いや、そんなことを問うのは意味のないことだろう。
この世に本当に正しい答えがあるものなんて、ない。
だからこそ、誰がどんなことを言っているのか、どこで何があったのか、そしていまここで何が起きているのか、そういったことに耳を傾け、目を凝らし、受け入れる。
そのプロセスをしっかり味わっていきたい。
わからないもの、というのは、ぼくらの好奇心を刺激してくれるすばらしいごちそうなんだから。