終わりがないことを、受け入れる。




人生の道というのは、ひょっとして「みち」ではなく、「どう」なのではないだろうか、と最近思いはじめた。



「みち」には目的地があり、そこへたどりつくことで旅を終えることができる。

「どう」にも進む方向はあるのだけれど、それには終わりというものが存在しない。

こんなことができるようになる、というようなひとまずの目標や段位や免許などの目安はあっても、そこにたどりつけば、また新たな境地を目指すわけで、ここまで極めればすべてがクリアになってあとは悠々自適、なんてものはないのである。


終わりのないものは、苦手だった。

受験でも就活でも仕事でもゲームでも、ひとまずのゴールがあるからがんばれるわけで、そこまでのプロセスが楽しいなんてものは歌にもあるように「あとからしみじみ思うもの」なんだと思っていた。

しかし残念ながら、ぼくにはもうそういった目的地へと向かうための、キレイに整備された「みち」はない。

選択できるのは、その代わりに自分で行き先を決めて歩いてゆき、どうも進行方向がおかしければ修正し、いやそもそも思っていたゴールが間違っていたのかしれないとまた見直し、うまくたどりつけたら次に向かう場所をまた自分で探す、まったくもって終わりのない作業を、するのか、しないのか、ただそれだけだ。

なんだか途方もない話のような気もする。

ただ、昔から「どう」をやっていくにはいくつかの知恵がある。

師の存在。

しかしそれをいつかは超えなきゃいけないこと。

また、礼儀や作法は「どう」に真剣に向き合うためのマインドセットを作る工夫だし、細かいルール設定は新たなアイデアを生み出すための創造的な制約。

そして何よりも「どう」は、それを志し、学ぼうとする人すべてに対して開かれている。


生きることは、そんな先人たちからの贈り物を受け取り、終わりのない試行錯誤を繰り返し、そしていつか誰かの何かの役にちょっとだけなるようなものを残す。

そんなものなのじゃないかなと、ひどく乱暴に思った。


だから、毎日が同じようなことの繰り返しだと嘆く必要はない。

人生は進むものではないのだ。

もしあなたが今日、昨日とほとんど同じ一日を送ったのであれば、それを心の底から喜ぶべきだ。

これまで培ってきた経験と知恵を最大限に活かして、今日という日を無事に生き残ることに成功したからである。