ワシらの、時代。


最近、高齢者について考える機会が多い。



高齢者、なんてひどく突き放した言い方をしたけれど、すでに中年についての研究には熱心なぼくであるので、自分ごととして考えるようになる日は近い。
高齢者の大きな関心事なるものを調べている資料を読んでいたら、それはいつまでも健康でいること、家族と触れ合えること、そしておいしい食事、なんだそうだ。
もちろんそれだけではないに決まっているのだが、はっきり言えば、なんだそんな年まで生きてもそれぐらいしか楽しいことなんてないのか、とも思った。
どうなんだろう、ぼくが高齢者になったときに同じことを思ってるなら、なんだかそれはつまらない人生のようにも感じる。
今のぼくの感覚だと、もちろん家族のことは気になるけど、ようやく一人前に子供が育ったのなら、やっと自分が今までできなかった新たな取り組みを始めるんじゃないかな、とか思うし、おいしいものを食べるヒマがあったら死ぬまでに少しでも何か面白い経験をしておきたいと思うし、これからの世代のために役に立ちたいとも思う。
しかしまあそれは当事者になってみないとわからないので今の感覚から意見を言うのはズルというものだろう。

いずれにせよ、あと30年後には3人に1人が老人の世の中になる。
生きていて何らかの作業ができる高齢者は、今の高齢者とは違い、イヤでも何らかの社会貢献をし続けなきゃいけなくなるだろう。
もちろん、ああぼくらはひどい貧乏クジを引いたな、と思わなくもないけれど、おいしいものを食べたり孫とたまに遊ぶだけが楽しみな人生よりも刺激があって、それはそれで悪くないけどな、なんて思ってしまう貧乏性である。

ところで、そんな超高齢社会においては、若さというのは何物にも代えがたい価値になるだろう。
そこでぼくらは、いやワシらは、あらためて命のかけがえのなさや、人生の不可逆性を実感するのだろうと思う。
ワシら高齢者は、まれに若い人に出会うと、自分からは完全に失われた生命のみずみずしさをまざまざと感じざるをえないからである。
そして、どれだけ金融資産を持っていようと手に入れることができない貴重な生命の輝きを前にして、弱々しいため息をひとつつくことしかできないからである。

であれば。

ぼくはもっと前から、命の素晴らしさに対して敏感でありたい。
子供はいずれ大人になり、やがて老い、死んでゆく。
その中で輝きを放つ人間の生命の不思議さに、できるだけ見とれていたいと思うのだ。

超高齢社会は、老人だらけの弱々しい、死臭漂う世界かもしれないが、だからこそ生きる意味や命のかけがえのなさについて深く考えるチャンスに恵まれるだろう。

それを生かすか殺すかは、未来の高齢者たる、ワシらにゆだねられている。