犬だって言いたいことがあるのだ。

ものごとをひとつ先に進めるアイデアについて考えています

生きてるひとは、みんな悪いひと。


「あの人はいい人だな」と思う人を頭の中で思い浮かべてみる。



だけどその人が、実は夜道で野良猫を蹴っ飛ばしていない保証はないし、インターネットに罵詈雑言を書き込んでいない保証もない。

いや、たぶん本当によくできた人物というのは世の中に存在するのだけど、しかしそんな人だって肉を食べたり野菜を食べたりして他の命を奪っているし、ちょっと家の外を歩くたびにたくさんの虫や草を踏みつけているのである。

子供なんてもっとひどい生き物で、自分では何も生産しないくせに、ひたすらミルクを飲んで排泄して、おまけに恵まれたこの国ではそれらはとても高価な紙おむつにくるまれて当たり前のように捨てられる。

原罪、なんて言葉があるけれど、本当に、人間は生きているだけで相当「悪いやつ」だと思うのである。

もちろん生きるというのはそういうことなのだし、じゃあもうちょっとだけでもぼくらが「いいやつ」になるためにはどうしたらいいのだろうと、そう考えるのが人間なのだ。

また、いやもう人間はどうせ悪いやつなんだから自分にはどうしようもない、ついでに人類なんて滅びてしまえと、そう思ってしまうことがあるのも人間である。

別に禅問答をしようとしているわけではない。

ぼくが最近思っているのは、だから、誰かを過剰に「この人はすごくいい人だ」と思う必要はないし、逆に「こいつはめちゃめちゃ悪いやつだ」と考える必要もないということである。

バリ島に行った時に聞いたことだけど、ヒンズー教で大切なのは善悪の「バランス」なのだそうだ。

ひたすら善行を積みましょう、ではなく、いい心と悪い心、色々あるけどそこそこにしておきましょう、という考え方はひどく楽になっていいなあと思った。

ぼく自身、自分は悪い人間だという自覚があって、ちょっと気が緩むとすぐにズルをしようとするし、めんどくさいことがあると簡単に目をつぶる。

しかし一方で急に人に親切にしたくなったり、世の中の役に立ちたいなあとも思っていたりする。

そういうことでいいのだ。

「いい人間になりましょう」というのは間違いだし、この世にはいい人間なんて存在しない。

だけど「良く生きようとしてみる」ことならできるし、それは悪い自分を無理やり排除するというような極端な話ではなく、自分の中に住んでいる善と悪のそれぞれをいい気分にさせてあげながら、それでも今よりちょっとはマシな生き方へと近づこうと地道に歩き続ける作業なのである。

だから、誰かを評価したい時に「いい人か悪い人か」という永遠に変化しないポートレートを眺めるようなやり方は間違っている。

この人はいま「良く生きようとしているかどうか」という人生の歩き方を見つめるべきだし、その進行方向は常に変わり続けることも理解しておくべきだ。

人は誰だって、善と悪のバランスの中でなんとか本人なりに絶妙な釣り合いを取りながら、ギリギリのところで暮らしている。

そんなハードモードで毎日過ごしているぼくらは、同じプレイヤー同士、お互いを認め合い支え合うべきであって、何かのはずみにバランスを崩してしまって色んなものを地面にぶちまけてしまったプレイヤーがいれば、それらを一緒に拾ってあげることはあっても、それを笑ったりバカにしたりするのはダサすぎる。

ぼくらは誰もが、悪いやつなのだけど、悪にも流儀というものはあるのだ。