他人のためか、自分のためか。



人の役に立ちたい、という言葉や態度に違和感や生理的な嫌悪感を覚えることはある。



人間は本来自分のために生きているわけで、自分がやりたいことをやっておいて、それを「あなたの役に立ちたいから頑張ってるんです」なんて言われた日には嘘つけこの野郎、となる。

まだ個人的な信条についてはマシなほうで、これが企業なり団体になると「人々の豊かな生活のために努力します」とか言われても、いやそこは自分たちの利益のために、と正直に行こうぜこの野郎、である。

「自分ではない誰かのために」という言説は、自分自身の真の目的や意志を隠してしまうことがある。


ややこしいのは本当に誰かのために何かをしたいと思う気持ちと、自分の欲望を満たしたいという気持ちは、きれいに切って切り離せるものではないところだ。

募金箱にお金を入れた人の中に承認欲求がまったくないとは言い切れない一方で、お金を儲けることが生きがいの人が他人を喜ばせることに一切興味がないとも言い切れない。

このへんの「どっちかに割り切れない感覚」というものをうまく表現するのが苦手だったり、あるいはそれを表現されることに抵抗を感じるというのは、ぼくにもある。


一方で、お金を払ってサービスを受けることに対してシビアな人をよく見かける。

レストランでの店員の態度の悪さに毒づく人、発注先の対応の遅さにブチ切れる人、サーバーがダウンする度にお詫びのアイテムを要求する人。

これは、お金を払っている相手を「完全にお金のためだけに働いている、自分たちの利益だけを目的として行動している」のだと思っているからじゃないだろうか。

そしてそれは、その人自身が、お金のためだけに働いているからなのかもしれない。


「この人は自分の利益のためだけにこの行動を取っている」というのはすごくわかりやすくて、表面上は安心できる考え方だ。

だけど、人間というのはもっとややこしくてめんどくさい存在である。

自分のことだけを考えて行動していても、どこかで誰かのことを心配していたり、少しは世の中の役に立ってもいいと思っていたりするものだ。

そんな時に、「お前、自分の利益のためにやってるんだろ、だったらもっとオレに尽くせ」という態度に出られたら、すごくイヤな気分になるだろう。

あまりにそんな経験が増えていくと、「ああどうせ自分のためにやってるんですよ、だからもう余計なサービスとかしませんので」という気持ちになってくるだろう。

その結果、何か他人のために役立とうとするマインドというものはどんどんしぼんでいく。


こんなことを言っていると、あいかわらず甘いなあと誰かに言われそうだけれど、そろそろぼくらは「なんだか割り切れない気持ち」を受け入れていったほうがいいのじゃないだろうか、と思う。

それは極端に言えば、少子化の問題は政府に任せておけばいい、とか、インターネットで炎上しているやつは叩いてもいい、とかいう態度をやめる、という意味も含まれている。

「これは政府の仕事だ」「これは叩いてもいいやつだ」というわかりやすい割り切りが、人の行動を単純でバカなものにしている気がするのだ。


もう一度言うけれど、人間というのものは複雑な生き物である。

その複雑さを受け入れて、「これは自分のためにやっている」「だけどこういう部分はちょっと世の中の役に立てたらうれしい」「ついでにこんな面白さもある」と丁寧に考えられるように、ぼくはなりたい。

もちろんそういう複雑さを受け入れた上で、あくまでシンプルな結論を出さなきゃいけないこともあるだろう。

だけど、そこはそんなに心配はしていない。



シンプルな結論を出して、シンプルに行動し、シンプルな結果を得ることができれば、また色んな割り切れない感情が渦巻いている複雑さの中へと、ゆっくりと還っていけばいいのである。