文章が下手でも、問題ない。


よく文章が上手いとか下手とかよく言いますよね。



あとそれは才能だから大きくなってから練習したってどうにもならないとか言う人や、いや才能じゃない、ちゃんと努力すればなんとかなるって言う人もいますよね。

しかしそういう話ってのは今後は意味がなくなるんじゃないかなーとか思うことがあります。

なぜなら、今ぼくらにはいくらでも文章を書くチャンスがあるし、いくらでも伝える手段があるからです。

人は15分だけ有名になれるとウォーホルは言ったそうだけど、15分どころか、いくらでも自分が思っていることを世界中に届けようとすることができる。

となると自然と文章が上手いとか下手とかいう問題が、それほど問題じゃなくなる。


もうちょっと別の言い方をしますね。

たぶんぼくがここまで書いた文章の意味は、ぼくの文章が下手なせいでうまく伝わっていませんよね、で、昔はここで「こいつは文章が下手だなあ」となって、世間様に見せる文章にはなりえなかったわけです、世の中に広く何かを伝えるための手段というのは限られていたし、それを使うことができるのはほんのわずかな人だったわけです。

コピーライターが必要だったのもそういうことですよね、企業としてはあれもこれも言いたいけど広告スペースはビシッと制限されているわけで、さてこんな狭いところにどんな文章を書いたらいいのか、そんなものを文章が下手なやつなんかに任してはおられぬ、ってことでビシっと登場したわけで。

ところがこのオープンなインターネッツでぼくらが暮らせるようになると、文章が上手いか下手かということはそれほど重要なことではない、そりゃとんでもないのは別ですよ、人、人、スマホ、人、スマホ、人、人、人、スマホ、ウッホッホ、みたいなことしか書かない人はちょっと困るかもしれない。

しかしそれだって、そいつにもうちょっと続きの文章を書かせると、人、スマホ、人、スマホスマホ、吊革、スマホ、ウッホッホ、ああつまり満員電車の中にいるのねと、まあなんとか伝わるどころかひょっとしたらこういう表現は新しいのかもしれない気がしていきますよね、いやしないと思うけど、まあそういうことです。

そうやって文章が上手くなくても、その人なりに自分の意見や状況を伝えることができる時代において、文章が上手いとか下手とかいうのは、ひげが薄いとか濃いとか、濃すぎて朝剃っても夕方にはボーボーで困ってるとか、それぐらいの違いしかない。


もうちょっと別の言い方をしますけど。

ひょっとすると、文章が上手いっていうのはひげの薄い濃いよりもちょっとは重要な可能性はあって、それはスピードですよね、文章が上手ければ伝わるスピードがちょっとは速い可能性がある。

どれくらい速いかというと、車にひかれそうになっている人に文章の下手な人が「そういえば赤い車が推定時速70kmで走っているんですけど、これはちょっとスピードを出しすぎでありましておそらくすぐには止まれないので、いま車道を渡ろうとしている人はその行為をすぐにやめないと車にひかれてしまうかもしれませんよね、それはあなたのことです」と言っていては間に合わないんだけど、文章の上手い人はたぶん黙ってその人の腕をつかんで止めますよね。

それぐらいの違いはあるかもしれません。

だけどそれは、そういうものすごい反射神経や判断力を必要とするような場面においてであって、まあ普段は、あえて危険な場所に行かない限り、必要のない能力です。

ただし、最近はそういう危ないところにわざわざ行って、自分の文章力がどこまであるかを試してやろうという人も増えていますよね、そういうのはまあ自分が責任を持てる範囲でとどめておいたほうがいいとは思いますけどね。


あとちょっとだけ別の言い方をさせてください。

結局、文章が上手いとか下手とかいうのは、読む側の、相手への愛情によるところが大きいと思うんですよね。

「なんだこいつ文章の下手なやつだな」というのは、こんな文章の下手なやつの話になんか付き合ってられるかっていうことで、文章が上手い人の文章しか読みたくない人というのは、自分が読み手として苦痛を与えられることに耐えられない人なんだと思います。

ところで最近はみんなどんどん文章が上手くなってきていて、それは自分の考えを発信できるチャンスが一気に増えたからだと思うし、それ自体は本当にすばらしいことです。

しかしそうなると、みんな読み手としての目も肥えてくるわけで、下手な文章を読むのがめんどくさくなる。

そこですよ。

めんどくさくなるけど、それでもこの人の文章は読みたいなと、そう思うかどうかが、これからはものすごく貴重なものになる。

だから、文章が下手な人は、やっぱり書き続ける価値があるってことですよね、それでも読みたいって思ってくれる人がいるってことは、あの手この手でみんなを楽しませる文章の名手が得ることのできる数々の称賛と同じかそれ以上の価値がある。

それで、ああでもない、こうでもないと、下手は下手なりに言い方を変えたり変えなかったりしながら伝えようとしているうちに、そのプロセス自体が書き手と読み手にとって、すごくキラキラした、かけがえのないものになっているわけですから。


ああすみませんすみません、最後にもう一回だけ別の言い方をさせてください。

どうか誰かの文章を読んだ時に「こいつの文章下手だなあ・・・」と思った時は、あの、別に正直にそう言ってもらってけっこうですけど、こう付け足してください、「でもなんか気になるな」、と。

相手のことが気になる、そこから愛は始まりますので・・・・。