ファミコン世代は、進んでいく。

ぼくがはじめてちゃんと遊んだファミコンのソフトはディスクシステムの「ゼルダの伝説」だった。

小学校の高学年だったと思う。

それまでは、とにかく家にファミコンのある友達の家に何人かで遊びに行って、いつも後ろのほうからテレビの画面をのぞきこんでいた。

ファミコンのゲームはどれも小学生にとってはなかなか操作が難しくて、自宅で何十時間と遊ばないと勘どころが習得できない。

だから、たまにコントローラを触らせてもらっても、ぼくの技量ではすぐにゲームオーバーになってしまうので、みんなのプレイを邪魔しないように、少し離れたところから、しかし熱心に、友人たちの熟練の技を見つめ続けていたのをおぼえている。

いよいよ家にファミコンがやってきてからも、ゲームをする時間は決められていたし、両親も興味津々だったので、結局家族みんなで遊んでいた。

それはそれで楽しくて、みんなでいっしょに謎を解く方法を考えたり、難しい操作が必要な部分だけ別の人に代わってもらったりして、冒険を続けていた。

思春期になると、ぼくは自分の世界に閉じこもるようになり、ファイナルファンタジーみたいなもっと話がややこしくてより個人的な内容のものを好むようになった。

これまで当たり前と思っていたことがそうではないと気づき、自分なりの価値観を作っていかなきゃいけなくなる時期。

おまけにぼくの通っていた中学校はものすごく荒れていて、ぼく自身も周囲に影響されて心がすさんでいた。

今思い出しても、楽しかったことなんてほとんど思い出せない。

唯一、ファイナルファンタジーのような、あの複雑で重厚な物語の中に浸っていると、現実からつかのま逃げることができたし、ここではないどこかに想いを馳せることができたのだろう。

そうやって考えると、ぼくが大人になってか、文章を書くことを仕事にしたいと思うようになったきっかけも、ファミコンだったのかもしれない。

ここではないどこかと、この現実をつなぐことができる方法をぼくはずっと探していたように思うからだ。


ファミコンは、あっちとこっちのあいだを行き来できる装置だった。

子供も大人もみんな同じドット絵の主人公となって、大草原を駆け抜ける。

崖から落ちて死んでしまったり、ゾンビに噛まれて毒が回ったりしながら、現実とは違う世界における身体と頭の使い方を知る。

ぼくらファミコン世代は、そうやって子供のときから色んな世界を行き来する技術を身につけてきた。

それはこの現実において特別な力とはならないかもしれないけど、そうではない新しい世界を作り出す時には役に立つのじゃないだろうか。

「ロストジェネレーション」とは、この現実からは失われた存在なのかもしれないが、ここにはないどこかに、次の場所を生み出すためにやってきた世代なのじゃないだろうか。


さて。

そんなことを思いながら、今日も持てるだけの薬草を買いこんで、冒険に出かけることにしよう。