犬だって言いたいことがあるのだ。

ものごとをひとつ先に進めるアイデアについて考えています

自分の野性を、飼い殺さないために。

 
 
 
 
 
ぼくはまったく論理的ではない。
 
 
 
組織の中で仕事をするにあたって、一番苦労したのはそこだった。
 
他人が話すロジックがまったく理解できないわけではないのだけれど、自分自身の行動原理のほとんどは直感なので、むずかしい話が頭に入ってこない。
 
だから話を聞いていたとしても、全然違うことをやってしまったりする。
 
「お前は話を聞かない」と何度も注意されていた。
 
それから何年もかけてなんとか矯正したのだけど、いまだにあんまり人の話を聞いてないことがあるし、思いこみの激しさはまったく直らない。
 
唯一進歩したのは、自分がそういう人間だということを自分ではっきり認めるようになったことくらいだ。
 
 
一方で、世の中には、とてつもなくロジカルな人間というのは存在していて、おまけにそういう人は組織を編成したり、集団を効率的に動かしたりすることを大の得意にしていることも多い。
 
論理というのはいろんな命令なり行動ががつまった指示書のような一面もあるから、各自がそれを読んでそのとおりに動けば、仮にそのチームにスーパープレイヤーがいなくても、目標は達成されていく。
 
そんな論理的な人からすれば、ぼくのように指示を正確に聞かず、思いこみの激しさのせいで全然違う方向にすっとんでいってしまう人間は、まったくもって邪魔な存在なのである。
 
 
もちろんぼくもいい大人であって、毎度暴走していては社畜でいられなくなるので、なんとか自分の中のカオスを飼いならす術は身につけているつもりだ。
 
人の話を聞いていて、ああこれはこうやったらもっと面白くなるんじゃないかなあと思っても、グッとこらえてまずは無心で耳を傾ける。
 
当面取り組むべき作業が、理屈は通っているんだけどしかしつまらない作業だなあと思っても、グッとこらえてまずは無心でやり通す。
 
しかし、それでは、ときめかない。
 
ときめかなくちゃ、楽しくない。
 
おまけに、それで終わってしまえば、ぼくの中の野性が、論理に屈服したことになる。
 
 
本当の勝負はここから始まる。
 
 
他人が一生懸命作ってきた理屈に敬意を払い、まずは受け入れて、そこから、理屈を超えたところへと跳躍するのだ。
 
大ジャンプを成し遂げるためには、ちゃんとしたジャンプ台が必要だ。
 
丈夫で、弾力のある、しっかりしたジャンプ台、それが理屈なり論理である。
 
そいつを思い切り踏みつけて、力の限り飛び上がる。
 
単なる論理の飛躍ではない。
 
命がけの大ジャンプだ。
 
それを成功させるためには、ちょっとやそっとのことでは壊れない、丈夫な論理性が必要なのだ。
 
 
だから、自分の中に制御しきれない非論理的なものを棲まわせてしまっている人は、理屈から逃げ回るのではなく、むしろ自ら歯ごたえのある論理性を求め、出会うことが必要なのだと思う。
 
人間の野性は、その論理が強固であればあるほど興奮して、それを粉々にしようと大暴れする。
 
その時に発されるエネルギーが、直感型人間の原動力なのだ。
 
 
そんなわけでぼくはいつも、論理だらけの密林の中で、自分の野性を徹底的に暴れさせる機会を、獲物を探すトラの目でじっくりと、ねっとりと、狙っているのである。