年を取って、どんどん自分だけの時間がなくなってきた。
一日のうちほとんどは仕事をしているし、うまく早く帰宅できたら子供と風呂に入って、今日あったできごとをちょっとだけ話して、家族が寝静まったらこっそりとパソコンを立ち上げてまた仕事。
休日は家の用事をしていたら、一日なんてあっという間にすぎる。
本当に自由な時間は、子供を水泳教室に送り届けてから迎えにいくまでの時間だけで、そのあいだにブログを書いている。
子供の成長につれて諸経費もどんどん増えていくから、ぼくは可処分時間も可処分所得も、ほんのわずかだ。
だから、ああもっと時間があったらなあ、と思うことはよくある。
もっと本が読めるのになあ。
もっと映画を観れるのになあ。
もっとブログを書けるのになあ。
まあそんな中で優先順位を決めていった結果、いまのぼくの時間の使い方が確立されてるわけで、それは誰だって同じなのだ。
けれども。
時間を使う、というと何か初めから自分が持っていたものを消費していく感じだけど、本当にぼくは時間というものを事前に所有しているのだろうか。
もうちょっと別の考え方があってもいいのかもしれない。
たとえば、ひょっとしたら、ぼくらは時間を作っているのかもしれない。
電車に乗って揺られている時間、会社でパソコンをにらんでいる時間、プリンタから印刷した紙が出てくるのを待っている時間。
それらは、ぼく自身の選択や行動によってひとつずつ作り出しているものかもしれない。
もし自分がすごしている時間の中身が気に入らないならば、行動を変えて、別の時間のすごし方を作ることもできる。
会社の仕事に長く拘束される時間が嫌なら、辞めて独立すればいい。
本を読む時間が足りないと感じるなら、ブログを書かずにもっと本を読めばいい。
ぼくらは自分の時間を能動的に作り出すことができるのだ。
すぐに望みどおりの時間が手に入るとはかぎらない。
しかしあれこれ試しながら、理想の時間のすごし方に近づけていくことはできる。
そうやって、より創造的な態度で、時間というこの厄介なテーマに取り組むことはできないかなあ、と最近はよく思う。
それは、そんなに難しい話ではない気がしている。
いま、この瞬間を、まっすぐに見つめればいい。
過去とか、未来とか、あるいは他人が作り上げている時間の使い方(1日は24時間だとかいう合意とか、遅くまで働いてる人間がエラいとかいう通念とか)から、ちょっとだけ自由になって、いま自分がいるこの瞬間を少しでもワクワクしたもの、心がときめくものに変えることに、集中する。
そして、行動する。
その時、ぼくらは時間を超越することができるのだ。
残念ながら、いつもそううまくいくわけではないけれど、ぼくはそうやって人生の歩き方を少しずつ変えていこうとしている。
時間の足りないことを言い訳にして毎日イライラしながら暮らす生き方から、自分で楽しい時間を作り出す生き方へ。
うまくいくかどうかはすべて、ぼくらの手にゆだねられている。
さあ、冒険に旅立つ時間だ。