犬だって言いたいことがあるのだ。

ものごとをひとつ先に進めるアイデアについて考えています

僕が社畜である、理由。



僕は、いわゆる社畜である。



社畜とは「はてなキーワード」によれば、

会社に飼い慣らされてしまい、一般的な倫理観を失った者。広義には、経営者ではない、雇用される側を指す。

小説家の安土敏が1980年代ごろに考案し、その後に評論家の佐高信が使用したことで広まったとされる。

社畜とは - はてなキーワード

なのだそうである。

また、社畜には以下のような特徴があるそうだ。

サービス残業に疑問を持つことをやめた
・NOとは口が裂けても言えない
・有給って何それおいしいの?
・代休って何それ新しいスイーツ?
・会社の椅子を並べて仮眠
・何年も昇給していないが仕方ないと思っている
・天候状況や災害で交通機関がストップしてもなんとかして会社に行こうとする
・胃が痛いが気のせいだ大丈夫だそのうち治る
・仕事をしながら食事を取る。コンビニ弁当が主食
ニートよりマシだと自分に言い聞かせる

社畜とは - はてなキーワード

僕は全部はあてはまらないけど、場合によってはそういうときもあるので、まあまあ社畜なんだろうなあと思う。

それから、社畜とは会社に飼い慣らされることで「一般的な倫理観」を失った者、というのはあまり意味はわからないけど、仕事の行動規範と思っているものが「会社の中だけの常識」「業界だけの慣習」でしかないことは多く、つい普段の行動の中でも「一般的な倫理観」ではなく「仕事における価値観」を判断基準にしてしまっていることも多い。

なので、僕は社畜なんだろうなあと思う。



では社畜ではない人って、どんな人だろう。



会社経営をしている友人や知人は、さっきの広義での社畜にはあてはまらないけど、どうも彼らの生活を見ていると、まあ文字通り寝ても覚めても仕事のことばかり考えているし、生活と仕事の途切れ目みたいなものがなく、一緒に飲んでもずっと商売のことばかり話していて、そういう意味では僕よりもずっと社畜であるようにも感じる。

しかし、ひょっとして、そういうすべての生活の中に仕事が組み込まれている状態を指して「一般的な倫理観」と呼ぶのなら、それはそれで納得はいく。

生きることそのものが商売に直結しているのであれば、普段のどんな行動においても、いつどんなことが商売の種になるかわからないし、逆にリスクにもなりえるわけで、常にそういった損得を計算して行動するようになる。

これは決して悪い話ではなくて、経営者たちをそばで見ていて思うのは、結局そういう損得勘定を突き詰めていくと「他人にちゃんと敬意を払おう」とか「感謝の念を持とう」とか「お世話になっている地域の人に利益を還元しよう」いう発想にたどりつくらしく、そのあたりは僕ら社畜よりもずっとストイックな価値観を持っているように思う。

しかしそうやって、自分の商売について徹底的に考え詰めて行動する態度は果たして「一般的」なのだろうか。

どうもしっくりこない。

そこで、経営者以外に社畜ではない人たちを考えてみたのだけど、たとえば裁判官をしている知人とかはまあたしかに「一般的な倫理観」を持っていなきゃいけないのだろうけど、家族がいながら頻繁に転勤させられることについて「まあ仕方ないよね」とあきらめているし、そもそも公務員だって国に雇われている国畜なわけで、どうも違うような気がする。

それじゃ、会社で働きながらも、さっきの社畜の特徴にあてはまらない、会社の常識なり慣習なりから自由な人ってどんな人なんだろうと思うと、有給休暇はすべて取得することを心がけ、定刻には確実に退社して、会社を出たら完全に頭と心を切り替え、「一般的な倫理観」をもとに行動しはじめる人ということになるのだろう。

そういう人はたしかに存在するし、これをもって「会社に飼い馴らされていない」と言えるかもしれない。

ただ、そういう生活は僕には無理な話で、性格的にオンとオフを切り替えるのがすごく苦手だし、たとえば最近はできる限り早く帰宅するように努力しているのだけど、しかし帰って家の用事をしているあいだも頭のどこかで仕事のことを考えているからである。

どうも自分が気になっていることについて考えるのを、簡単に中断することができないのだ。



あえて主語を大きくするけれども。



人間というのは「やりすぎてしまう」生き物なのじゃないだろうか。

仕事でも趣味でも、熱中してしまうとつい自分が予定していたよりも多くのエネルギーを使ってしまったり、時間をかけてしまったりする。

もちろんそれで仕事仲間に迷惑をかけたり、趣味にのめりこみすぎて身体を壊したりするのはよくないけれど、「やりすぎてしまう」ことの楽しさというのは、大切にしてもいいのじゃないだろうか。

例の「一般的な倫理観」というのは、そんな「ついやりすぎてしまう自分」を自由に、堂々と解き放つことができる機会をちょっとずつ作っていく、とても創造的な態度のことじゃないだろうか。

そしてそれは、会社に雇用されている側でも、雇用する側であっても、関係のないことじゃないだろうか。



とまあそこで問題なのは、結局僕はこれからも、どんな形であっても、働き続けられる限りは働いていきたいと思っていることである。

仕事を「ついやりすぎてしまう」あまりコンビニ弁当を食べることに、特に違和感を持っていないことである。



だから残念なことに、どう頑張ったって、僕は社畜なのである。