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犬だって言いたいことがあるのだ。

ものごとをひとつ先に進めるヒントについて考えています

小遣い制について、語る時が来たか。





小遣い制においては、ほんのわずかなミスが、命に関わる。


コーヒーを自動販売機で買うことなど、ありえない。

少なくともオフィスで仕事しているあいだは、ありえない。

タイムセール中に思いきって購入した徳用インスタントコーヒーを限界まで薄めて飲まなければ、生きていけない。


外出する時は、使い古しのペットボトルに家で作った麦茶を詰めて持ち歩くのがまあ常識だが、これを飲む時は仕事相手が誰も見ていない時を狙って高速でカバンから取り出してほんの一口だけ含み、それ以上に素早い動きで再びカバンの中にしまうのが、小遣い制のたしなみだ。

万が一飲んでいる最中に誰かに見つかってしまった場合は、あたかも先ほどコンビニかどこかで買ったばかりのものを飲んでいるような堂々としたふるまいが重要だ。

決して動揺を見せてはいけない。

何度も洗って再利用を続けていることで細かいキズやお茶の色素沈着が生じていることや、商品のラベルなどとうの昔にはがしてしまって一体この茶色の液体が他人の目にはどのように映っているのかということについて、決して思いをよぎらせてはいけない。

こちらが自信を持った態度でいれば、多少の怪しさなどカバーすることができる。

たとえ、見破られそうになった時でも絶対に取り乱してはいけない。

そうだ。

小遣い制によって日々鍛えられている人間にとって、相手の注目を古びたペットボトルからそらすためにわざわざ仕事上の面倒な話を持ち出して事態をややこしくしてしまうことなど、まったくもって何でもないことだ。


勘違いしてはいけない。


小遣い制だということについて、卑屈になるべきではない。

後輩から人生相談を受けて、ランチに行くならば、是非ともおごってやるべきだし、その際に領収書を受け取る気まずさを避けるべく、トイレに行くフリをして先にお会計を済ましておくことなど当然である。

まして、グロスの出費を抑えんがために料金前払い系のファースト的なお店を選ぶなど色んな意味で言語道断なのだ。

小遣い制たるもの、後輩に気持ちよくおごってやれたという誇りを最高の美味として、しばらくは家から持ち出した賞味期限切れの食パンを公園のベンチで細かくちぎり、ゆっくりと、何度もかみしめながら、次の小遣いが支給される日を待つものなのだ。


そんな生活を送り続けていれば上質なものに触れた時の高揚感や、ラグジュアリーな空間ですごす心のゆとりを忘れてしまうという輩も出てくるかもしれないが、全く問題ない。

堂々と、きわめて堂々と、高級ブランド店を訪れて、余裕たっぷりに品定めをするふりをして歩けばよい。

そのうちお店の方がやってきて、服なり時計なりアクセサリーなりの試着をすすめてくれたら、その時はそれが当然であるかのように自然な所作でやってのけるのだ。

これを何度か繰り返しているうちに、本物のシルクのジャケットの着心地も、一生身につけることのない機械式時計という名の小宇宙的なものの装着感も、身を持って知ることができる。

また、西に新しくできた外資系のホテルがあれば行ってロビーにあるふかふかのソファに座ってこれは素晴らしいと言い、東に老舗の伝統的なホテルがあれば行って飾ってある本物の絵を愛で、それを奇異の目で見てくるホテルマンには怖がらなくてもいいと言うことも、気晴らしには非常によろしい。


大切なのは、小遣いの額でない。


全く懐に余裕がないところから、いかにして心の余裕を生み出すかという精神の錬金術こそ、重要なのだ。

その鍛錬を日々欠かさない小遣い制被導入者は、ちょっとやそっとのことでは動じない。

可処分所得などという存在しないも同然の言葉など、冷蔵庫の奥から見つけ出した数年前の料理酒と一緒に腹の奥へと流し込んでしまえばいい。

そして今日も味のなくなったガムを数時間かみしめて、生きていくのだ。



給料一括銀行振込という悪しき風習がこの世からなくなる、その日を夢見ながら。