僕は、ノマドです。





どうぞ、ご自由になさってください。


というと、怒りだす人がかなりの確率でいる。

僕なんかはかなり自由を愛している人間だと思うのだけど、それでも突然放置されてしまうとなんだか心もとなくなるから不思議なものだ。

まあたぶん本当の自由なんてものは存在しなくて、あくまで人との関係性における自由みたいなものが心地いいのだし、それを誰もが享受できるような世の中になってほしいなあと、あんまり深い意味なく、そう思う。



さて、籠原スナヲさんのこのエントリをきっかけに、僕もこの本を読んだ。

ヘーゲル的ノマドロジー、カント的ノマドロジー ――柄谷行人『遊動論 柳田国男と山人』について - 鳥籠ノ砂


本書は遊動民、つまり「ノマド」についての話だ。

ノマドと一口に言っても、2種類あるという。

1つは自由に色んなところを行き来しているように見えながらも、実際は国家や資本の支配に関わり、それを拡張する役割を担っているもの。

たとえば、どれだけ個人の自由を求めて独立した起業家であっても、資本金を借り入れたり、新たに社員を雇用したりすれば、そこに何らかの支配と被支配の関係が発生する。

一人の人間が自由を勝ち取るために、別の不自由を引き取ったり、あるいは他の人間に不自由を強いたりする可能性は、否定しきれない。

これに対して、もう1つ、そういった支配をはるかに越えた存在で、それぞれが真に平等な関係にあり、各自が獲得してきた資源をお互いに純粋に与えあって暮らしていくものがあるという。

柳田国男氏は、後者の存在をずっと追い続けてきたという。

これは、そういった生き方を、多くの人々が追求するようになれば、本当に平等で自由な社会はやってくるという、とらえようによればものすごく夢見がちな態度でもある。

幻想、と言ってもいいかもしれない。

この手の話を聞くと、おえっ、という拒否反応を示す方もたくさんいらっしゃるだろう。



しかし、このような遊動民は、実際に存在する。



それはこのインターネットの中だ。

ブログを書いたり、創作をしたりして、それを無料で発信したり、その中で面白いと思ったものをどんどん他人にも伝えていったり、あるいはその状況を面白くまとめたり、こういう不思議な共同作業というのは、本書にあるような「それを(自分だけで)所有する意味もないから」みんなにどんどん分配していくという純粋贈与の交換様式を成り立たせているように思う。

もちろん、インターネットの中でも、コンテンツを有料化したりしてそこに何らかの資本の蓄積を行おうとする試みはたくさんあるけど、その様式がすべてを支配してしまうような動きは見られないし、多くの人がそれを望んでいるようにも思えない。

掛け値なしに純粋に贈与しあう楽しさを、みんなで共有しているように見える。



いや、それもただの幻想だ、と思われるかもしれない。



そう、これは幻想なのだ。

僕らはいくつでもインターネットの中にアカウントを作ることができるし、気に入らないことがあればそれを消去してしまうことができるし、しかしそれはたとえ過去ログを全て抹消することができたとしても、他人の中で物語となって生き続けていく。

インターネットにおける僕らの存在は、「山人」と同じように実体のない、語られるだけの幻想の存在なのだ。

身体を持たない幻のノマドとなった僕たちは、国家や企業やさまざまなしがらみをはるかに越えて、サイバー空間を自由に行ったり来たりする。

そうやって、柳田国男が夢見た理想の遊動民は、ちゃんとインターネットの中に生息しているのだと思う。


そうだ、そのとおり。


僕らの「現実」はこのとおり苦しいままじゃないか、ということについては、こう反論しよう。

それでは、僕らの、インターネットじゅうを無尽に行き来するファンタジーの民としての暮らしが、普段の苦しい現実における行動というものに、一切の影響を与えないということがあるのだろうか?


もうこのエントリを読むという現実の採択をしてしまった人に、その可能性を否定することは不可能だと思うのだが。