憧れない、ちから。




今でもふと、夢想してしまうことがある。


他の全てがどうでもよくなるほど、心の底から誰かの生き方に傾倒し、ただそれを追いかけ続けることだけができれば、それはそれで楽だろうなあと、そう思うことがある。

その人の生き方に強い憧れを感じた時、僕らの意識はぎゅっとそれにフォーカスされる。

ああでもない、こうでもないという心の迷いが取り払われて、視界がすごくクリアになったように感じる。

おまけに、憧れの人は、具体的な答えを提示してくれる。

困った時はこんな判断をすればよい、人との付き合いはこうすればよい、出かける時はこんな服装をすればよい、そして誰かを愛するにはこんなやり方をすればよい。

その時に、これまではうすぼんやりとしか見えていなかった自分の進むべき道に光が差して、前へと歩きだす勇気がむくむくと湧きあがってくる気がする。

「憧れの人」は僕らを見知らぬ地平まで、一気に連れていってくれる。


そうなんだけれども。


その人は、肝心なことを教えてくれない。

それは、「誰かに憧れることによって大きくショートカットをする」ということ以外の方法についてだ。

それについては、自分で失敗しながら学んでいくしかない。

しかし、一度ショートカットの気持ちよさを経験してしまうと、自分の足で歩くのが億劫になってしまい、ここではない別の地点まで移動するのに、また他の誰かに憧れることで事態を解決しようとしてしまう。

僕はそうやって、どんどん自分で歩く力を失ってきたように思う。


だからこそ。


容易に誰かに憧れないことって、大事だなあと思う。

もちろん、この人はかっこいいな、素敵だな、なんてことはいつも思っている。

そして、彼彼女が、これまでの人生をどのようにして歩いてきたのかをよく知りたいと思う。

だけど、結局、人は自分の道を歩いて進んでいくわけで。

その道のりが僕らを作っていくわけで。


わかっているのだけども。


ただ、その行き先が思った以上に険しい山道だったり、あるいはあまりにも退屈すぎる一本道だったりすると、つい、僕は空を見上げて、憧れの人という便利な乗り物が飛んできて、どこか知らないところへと連れていってくれないかしらと、ついつい夢想してしまうことがある。


さて、そんな心の荷物整理をしたところで、今日も機嫌よく、自分の道を歩いていくとしようか。