子供を水泳教室まで送り、終わるまでのあいだ、僕は地元のスーパーのフードコーナーでコーヒーを飲みながら、本を読んだりブログを書いたりする。
あまり良い環境ではない。
近くを小さな子供が叫びながら歩き回ってアイスクリームを床にぶちまけたり、それを親が大声で叱ったり、隣の売り場のプロモーションの音がガチャガチャと聞こえてきて、うるさい。
しかし最近はこれが僕が一番リラックスできる時間だ。
そこには他人の生活があって、そして僕自身の生活もその場所に密着していて、このわずかな自由時間が終わってしまえば、また生活と仕事との繰り返しへと戻っていく。
微妙なすきま時間の中で、僕は心の深呼吸をする。
ここは、とても「格好の悪い」場所だと思う。
多くの人の生活がにじみ出ていて、気だるくて、無個性で、量産的で、刺激がなく、凡庸で、全てが停滞している。
僕が普段の仕事の中で求めているようなこととは正反対の位置にあるのかもしれない。
自分自身も小汚い普段着の姿で、そういう格好の悪さに身を浸している時に、それが生きることの一部を確実に占めていることを再確認する。
こういう格好の悪さを否定したかった自分に家族ができて、結局はその格好悪さを、それなりに受け入れていることに気づく。
そういう目でフードコーナーを見渡すと、それまではただの風景でしかなかった他人の一人ひとりに生活の喜びがあり、悲しみがあり、当然ながら自分もそれを味わいながら暮らす一人なのだとわかる。
生きることとは、とても格好悪くてダサくて、ちっぽけなものなのだ。
そんなことを考えながら。
ここにいる人たちと同じように、僕もなんとか今週を無事に生きることができたと、そう安堵することによって、僕のわずかな深呼吸の時間は終わる。
僕が大切にしているものなんて、ひょっとしたらこの程度のことなのかもしれない。