京都が、嫌いです。






東京では、大阪に出張すると言うとみんな気の毒そうな顔をするのに、京都に出張すると言うとうらやましがるらしい。


大阪の人間からすれば、大阪と京都の何が違うのかと思う。

しゃべる言葉も、飲んでいる水も、ややこしい人柄も、ほとんど変わらない。

それなのに、まあずいぶん京都という土地は、東京に対するブランディングに成功しているのだなあ、何が古都だ、新都におもねりやがって、などと思う。


もちろん、やっかみである。



僕には「積み重ねてきたもの」への嫉妬心がある。


京都は、それがポーズだとしても、たしかに古くから積み重ねてきた伝統を大切にしている。

内部には最新のテクノロジーを完備していたとしても、表向きは昔からの何かを受け継いできたような顔をしている。

残念ながら、大阪にはそういう部分が少ない(実際はそういう人たちもちゃんと存在するが)。

たとえそうすることが「儲かることだから」だと理由を呈示したとしても、受け入れることはないだろう。


別に京都に限ったことではない。

僕は幼少期をいわゆるニュータウンで過ごしてきたせいもあり、「古くから積み重ねてきたもの」に触れる機会が非常に少なく、もしあったとしても、それがとても良いことだと認識する経験はほとんどなかった。

また、元来新しいものが好きで、自分が持っていないものにばかりが気になってフラフラと吸い寄せられる性格なので、1つのことを長年根気よく続けることが苦手である。

時代の流れもあったのだと思う。

流行しているものをどんどん取り入れて、古いものは捨てていくことがかっちょいい、という空気を子供ながらに感じとっていたのだと思う。

そして、僕はまあまあそのまま大人になった。


おかげで、僕の中には、長い時間をかけて「積み重ねてきたもの」がほとんど残っていない。

いまだに、わからなければ調べればいい、などと知識を軽んじるような部分があると思うし、1つのことをコツコツとやってきて「オレにはこれしかできないから」と言える人に対してのドロドロとしたジェラシーみたいなものがある。



まあ、だからといって、いまさら何かを1から積み重ねていこうとしても、もう遅いとも思っている。

僕くらいの年齢になると、人生で積み重ねてきたものは、誰が見てもそれなりにわかりやすいレベルで差として存在するとも思う。

それを今から取り戻そうとしたって、すぐにあっちへフラフラこっちへフラフラしてしまう、僕の軽薄短小な性格が邪魔をして、何も身に付かないことだろう。


だけれども。


まあ少なくとも、ペラペラしたチープで薄っぺらい生き方をしてきたという事実は、僕にとってのたった一つの「積み重ねてきたこと」である。

だから、これからも、ヘラヘラ、フラフラと道に迷いながら進んでいくしかないのかなあと思う。

そうやってでも歩いてきた道を、死ぬ前に思い出して、それなりにニンマリするためには、まだまだ必死で生きねばならぬ。

必死の思いで、ヘラヘラせねばならぬ。


そんなわけで、僕は、ただその土地にあるからという理由だけで、時とともに大切なものが降り積もって豊かになっていく、そういう「京都的なもの」がそれはもう、とにかくうらやましい。


だから京都は、嫌いで仕方がない。