犬だって言いたいことがあるのだ。

ものごとをひとつ先に進めるアイデアについて考えています

やりがいヤンキーの、掟。







昔、とある企業の社長に対してプレゼンテーションをした時、服装について苦言を呈されたことがある。


もともと僕らはめったにスーツを着ない上に、とにかく真夏の暑い日だったので、ポロシャツに七分丈のパンツで、くるぶしはまる出し、みたいな格好をしていたと思う。

僕は普段からあえてカジュアルな服装にこだわっていて、それは、僕らは常識や体面みたいなものにとらわれませんよ、非常識だと思われる部分についてもちゃんと考えて自分たちなりの答えを提示しますよ、という態度表明だった。

この時も、いやあ僕らはいつもこういう感じなんですみません、みたいな返答で適当にかわしたつもりだったのだけど、どうやらそこの印象でつまずいてしまったようで、提案の大枠については一通りの理解を得たのだけど、どうも決めかねる、といった空気になってしまった。

こういう時はどれだけ無理矢理押し込もうとしても意味がない。

ではもう少し細かいところまで詰めてからもう一度うかがいます、という話をして引き下がることにした。


それでもう一度チームで企画を練り直して、これなら納得してもらえるだろうというものを仕上げ、いよいよ明日は再提案、となった日の夜中に先輩から電話がかかってきた。

あのさ、うつけ者、うつけ者って言われてた織田信長斎藤道三と会う時にバッチバチに正装してて驚かれたって話あるやん、あれやないけど、明日はスーツ着ていかへんか、もちろんネクタイもして。

そのたとえは間違ってる、と思いながらも僕らはしぶしぶスーツにネクタイをしめて汗だくで再提案を行った。

練り直した企画がよくできていたのか、スーツのおかげなのかはわからないが、その内容は社長にすんなりと受け入れられて、じゃあ君たちに任せてみよう、ということになった。

いや、今、僕はウソをついた。

提案がうまく行ったのはスーツを着ていこう、といった先輩のおかげだ。

その社長は、僕らが部屋から出ていく時に、小さな声でこう言ったのだ。


なんや、君たち、きれいな服持ってるんやね。



僕は自由をこよなく愛している。


他人から考えをおしつけられたり、みんなと同じ行動をするように強制されることが大嫌いだ。

スーツにしても、飲み会への参加にしても、面倒で仕方ないことがあるし、非生産的などうでもいい儀式のために自分を歪めたり、無駄な時間を使ったりすることが耐えられなかったりする。

しかし、自由を愛している人間こそ、そういうくだらない常識とかマナーとかお作法とか儀式とかについて、ある程度は詳しくなっておいたほうがいいかもしれない、と最近は思う。


それは、異文化コミュニケーションなのだ。


偉い人にへりくだるとか、社畜の極みとか、そういうことではなく、スーツにネクタイをして礼儀を重んじ、会社という小さなコミュニティ内での序列や秩序を重んじるという、一風変わった風習を持つ異文化に対して、敬意を払うということなのである。

それが多少間違っていても、たいして問題にはならない。

日本を訪れた外国人が、それが正式な挨拶だと勘違いして、両手を合わせてお辞儀をしてきても、妙だなとは思うけど嫌な気分にはならないのと同じだ。

ああ、この人は、なんとかこちらのやり方に合わせようと努力しているのだな、という好意を持つケースのほうがずっと多いと思う。


できるだけ自分のペースで、自分の考えで、やりたいことをやりたいと思うなら、まずは小さな民俗学者となって、そこの風俗習慣を調査して、彼らに受け入れられるように試してみる。

そうやって、自分の身の回りを少しだけ居心地よくしてみることも大事かな、と思う。


僕はツッパリとかヤンキーとかいう考え方が嫌いではなくて、僕自身、くだらない現実が決めたよくわからない「やりがい」などにとらわれず、自分が本当に気持ちいいと思える道をつらぬく「やりがいヤンキー」でいたいと思っている。

だからこそ、くだらない表面的な部分で誤解されたり、居心地の悪さのせいで集中力を乱したりしたくない。

僕が戦うべき場所は、少なくともネクタイをするべきかどうかとか、来客にお茶を出すべきかどうかとか、そういうわかりやすいシーンではなく、水面下に存在する。

それは非常にわかりにくいところにあるが、しかし自分に素直になっていれば、見えてくるはずだ。


だから、誰からも明確にわかりやすい部分については、ツッパる必要などはない。

必要だと思えばネクタイを締め、笑顔でお茶を出せばよい。


自由を愛する人こそ「わかりやすさ」に負けてはいけない。


本当の戦いは、もっと先にある。