勝つ議論と、勝たない議論。







昔は、打ち合わせは、戦いの場所だと思っていた。

どれだけ自分の主張を通せるか、そしていかにして全体の方向性についてのイニシアティブを勝ち取るかが、すべてだった。

そのために徹底的に事前の準備を整えたり、打ち合わせに参加するメンバーたちと事前に内通しようと画策したりもした。

そして実際に議論が始まると、反論してくる相手に対してはなんとしても打ち負かそうと非常に好戦的な態度をとっていたし、そうなるとだいたいの場合、相手もこいつ何も知らない若僧のくせにとムキになって向かってくるのでその揚げ足を取ってすっころばせたりしていた。
それでも屁理屈や感情論やスジ論を並べ立てて食らいついてくる人もいて、深夜までずっと言い合いを続けていたことも何度もあった。

そうやって勝ち取った自分の主張どおりに施策を実施した結果、もちろん失敗することもたくさんあったけど、僕はそれを全部自分の責任として引き受けたいと思っていた。
しかし今考えれば、そんな若僧に引き取れる責任なんて何もないし、少しの事業に失敗しても最悪でも降格程度で済むのが会社員なのだから、たいした覚悟があったわけでもないのだろう。

まあとにかく、僕にとっての打ち合わせは、勝つことだけがすべてだった。




今の僕にとっての打ち合わせは、参加しているメンバーとアイデアを出しあって何か面白いことを企むためのとても大切な時間だけど、よくよく考えると、いったい、どうして自分はここまで態度を変えてしまったのだろうとふと思った。

大きな理由として、単純にそういうやり方を知らなかった、ということもあるかもしれないけど、当時の僕に今の打ち合わせのやり方を伝えたとしても、ふーん、そんな甘いやり方で勝てるんですかね、って言い返されるだけだと思う。

そんな状態の人にはなかなか受け入れてもらえないだろう。

おまけにアイデアというのはすごく繊細で傷つきやすいやつらなので、勝つとか負ける、とかいう言葉に敏感に反応してすぐに萎縮してしまう。

あの頃、僕は、勝ちたかった。

社内の競争にも、他社とのコンペにも、そして人生自体にも勝利を勝ち取りたかったのだと思う。




勝つとか負けるという考え方は、そこにちゃんとしたルールがあり、勝った人はもちろんのこと、負けた人にも分けてもらえるだけのたっぷりとした資源がある時だ。

負けた人もそれなりに周りから労われたり、次こそは勝つぞと再起を願うことができる、そういう状況が継続的に保たれている場合だ。

残念ながら、今の僕にはそういう豊かな文化が残されていない。

だから、打ち合わせの目的は変化していった。

偶然にも同じ場所に集まることができた人同士が、少しでも自分たちの資源を増やしていくにはどうすればいいのかを相談する場所へと、僕の認識は変わっていった。

そして僕自身の生き方自体も、他人との競争に打ち勝つことで輝かしい何かをつかみ取るというのをあきらめる方向へと動いている。

これはあくまで僕の考え方だけど、やっぱり、どんな状況においても勝つということだけが答えではないと思う。

今の僕にとっては、勝つ、ことよりも、作る、ということのほうがずっと大切だ。

それは従来言われてきたような、おしゃれでかっちょよくてクリエイティブで前衛的でアーティステックななにがしだけを意味するわけではない。

むしろ誰も見向きもしない廃材を集めてきて、何か多少は使えるものに再加工する作業に近いかもしれない。

他人から見て、作る、という概念からはかなり外れたものになるかもしれない。

それでも今はそれに取り組んでいくしかないなあと思う。

いつか、思う存分、本当の勝負を堪能できるようになる時が来ることを夢見て。