働くことは、知恵を寄せあうことでもある。







実際にそうなってみないとわからないけど、もし僕に余りあるお金があったとしても、たぶん働き続けると思う。

理由は非常にシンプルで、さみしいからである。


しばらく「働く」ということについて考えてきたけど、あえて「お金」という話は保留にしてきた。

「働くのはお金を得るため」という結論を出してしまうと、単純に議論としてつまらなさそうだったし、お金以外の他の何かが生まれる可能性をつぶしてしまいそうだと思っていたからだ。

また、お金をたっぷりと持っている知人についてのエントリを以前に書いたけど、その結論はいまだに変わっていないからでもある。

どれだけ金持ちになろうと、社会的に成功しようと、その結果として、心を開いてどうでもいいことを打ち明けあえる人が誰もいなくなるのであれば、その権利は勇気をふりしぼって放棄したい。

オオカミを撃つ男と、永遠の孤独。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。

よく、絶対に言ってはいけないセリフの代表格として「誰のおかげでメシが食えてると思ってんだ!」というのがあって、その対となっている「そんなデカイ口を叩きたいならもっと稼いできやがれこの甲斐性なしが!」と合わせて、これは別に夫婦間だけでなく、色んな状況において忌避されているにもかかわらず、まあまあ耳にする言葉である。

まあこのセリフの本質は「ボク、こんなに頑張っているんだから、もっとほめてよ!」だと思っているので、よしよし、と頭をなでてあげればよろしい。

だがとにかく、お金という収束ポイントを早々に提示してしまうと、楽しい話に発展させにくいね、ということである。



池田仮名さんのエントリに、こんな一節がある。

ゲマインシャフト的な世界観においては、なんらかの能力による「承認」はあまり必要ありません。あくまで友だちとして一緒にいて楽しいとか、血縁関係があるとかです。それは能力主義社会においては批判されることですが、既にゲゼルシャフト的な世界観が浸透した「会社」などのコミュニティに属している場合において、ゲマインシャフト的なサードプレイスを求めようという欲求がでてくるものと考えており、実際に私もその方向性のが強いのです。

承認欲求と包摂欲求についての一見解。または「あ、承認とかいらないんで、とりあえずお金下さい」 - 情報学の情緒的な私試論β

たしかに会社やお金を稼ぐための組織というのは非常によくできていて、同僚や取引先とのコミュニケーションやチームとしての協力、飲み会や社員旅行などを通して、血縁関係やそれ以上の連帯感を感じることもできるし、それがよりたくさんお金を得るための手段として成立している場合は、仕事って楽しいなあと思えることが多い。

しかしこれは微妙なバランスの中で成立しているので、少しでも崩れると、途端に仕事は辛くて苦しいものになる。

いや、だから家族を作るんだよとおっしゃる方もいるだろうけど、世の中そんなに単純なものじゃないし、じゃあ家族がいるからそれ以外の時間はすべて苦痛であっても我慢できるのかといえば、申し訳ないが僕には耐えられない。

また、家族だって1つの企業みたいなもので、それぞれが掛け値のない依存を前提にしていたとしても、これまた非常に不安定なバランスを守るための工夫や努力というのは相当必要であって、それはそれでMPがいる。

とにかく、せっかく人生のほとんどの時間と労力を仕事に費やしているのだ。

少しでも楽しいものに変えていきたいと思うのは僕だけではないだろう。

また、この仕事や家族といった第1、第2の場所をより楽しいものにするための「第3の場所」すなわちサードプレイスについても僕もしばらく考えていきたいと思っているし、その手段の1つとしてブログというものを想定している。

それは、僕が自分のことを「サードブロガー」と称している理由でもある。



ところでこれは僕だけの勝手な見解だが、僕がサードプレイスに求めているのは「居心地の良さ」ではない。

僕が求めているのは、それぞれが自分たちがいま直面している色んな問題についての悩みを共有しあったり、正面から取り組むための知恵を出しあったり、またうまくいかなかった場合でも、少し羽を休めて次の作戦を考えたりできる、そういう場所だったりする。

あくまで僕にとって立ち向かうべきは、このつまらなくて、くだらなくて、辛くて、そして残酷な「現実」であり、それをどうすればいつもワクワクドキドキしていられる場所へと変えていけるのかを、命の限りを尽くして取り組むことこそが、僕の「はたらく」ことなのだ。


いや、誰もそこまでのことなんて求めていないって?

では、こんな僕のつまらないおしゃべりに、多くの方々がブログで反応してくれているという事実も無視してもいいということで、よろしいだろうか。

仕事を始めて10年、この一年は仕事の幅が凄く広がった。今までの下から降ってくる仕事だけでなく、自分の企画、立案した仕事というものが出来るようになった。ドラゴンクエストでいうと船を手に入れ、自由度が一気に上がるところにいる。オーブも集めないといけないし、カジノも行かなくてはいけない。家業を継ぐにあたり、親父というラスボスを倒すには武器もはがねのつるぎだけでは心許ない。そんな状況を楽しみたい。と思っている。

(中略)

結論

僕にとって働くこととは「筋トレ」

はたらくこと。 - コリログ

自分の仕事が世の中に広く影響を与えられれば与えられるほど嬉しいです。

これからの自分の時間の大部分を費やすのだから、自分が生きてきたという爪痕をこの世界にできるだけ深くつけたいと考えて企業を選んでいました。

そう思うと、たとえ6億円あたってお金がコレ以上いらないやという状況になったとしても、自分は働くことをやめないだろうなと思いました。

世界に影響を与えようと思ったら、個人よりも企業の方が圧倒的に簡単なのです。

6億円あたったら仕事をやめるだろうか - 指揮者だって人間だ

俺の場合はただシンプルに「はたらきたくねぇから働きたくねえ!」とワガママなクソガキのようにのさばる。まあ、そんなこと言いながら働いてんだけど。そんで、職場に行ったら行ったで頑張りはするんだけどさ。

働くことは面倒臭ぇ - ロックンロールと野球とラーメン

(前略)働くということは、

・ まずは、死なないため

・ その次に、楽しみのため

ということだろう。

そうではない、という人は見たことがない。

働くことへの理由として色々と上がるだろうが、どうしたって、ここに行き着くはずだ。

ということで、人が働くのは人生を楽しむため。

そんなに問答が必要な話じゃないよね、と思う。

人が働くのは人生を楽しむため - lestructure's blog

僕の仕事が誰かの「やりたいこと」にあげられることはなくても、「やりたいように」「自分が信じるように」「ちょっとでも関係者を幸せにするようなやりかたで」やろうと努力することはできる、と思っている。

 いぬじんさんの言う「ウソ」という言葉は、僕らの置かれている状況をうまく表していると思う。
 だけど、「ウソ」で始まって真実に変わるのが、ライフワークであり、働くということなのではないのかなと、最近、僕は思っているのだ。

「ウソ」から始まって「真実」に変わるのが、「働く」ってことでは? - ICHIROYAのブログ

だから今年の働くってことは、「期待されるようになる」にしようと思う。新しい職場、Twitterの友人たち、リアルの大事な友人たち、ブログを読んでくれてる方々…いろんな人に期待されたい。
(中略)マレーグマさんに会ったらば「お、最近何かない?」って言われるよな、いつもいつまでも何かあるんじゃないかって思われる人になりたい。そのための努力なら惜しみなくするよ、たぶんね。

労働讃歌 - マレーグマの頭のなか

そんなわけで、これからも、できるだけ多くの人と知恵を寄せあって生きていきたいものだと願っている。