働くことは、ウソをつくことでもある。








先日ブログに「働くこと」について書いて以来、これは今けっこうちゃんと考えておきたいテーマだと思ったので、周囲の人にも「あなたにとって、働くとはなんですか」というウザい質問を連発し、ネットでもリアルでも挙動不審なサードブロガーのいぬじんです、こんばんは。



それでも世の中には優しい人がいるもので、構成作家をしている先輩はこう答えてくれた。

「それしかできないので、それをやってるだけ」だそうだ。

これはあまりにもかっちょいい回答で、ぐうの音も出ない。

まあたしかに自分の経験を振り返ると、変に選択肢を色々と与えられてしまうと、ああでもなければこうでもないと悩み始め、ちょっと何かを始めてみて失敗すれば次を試し、それがうまくいかないと別のをやってみて、といった感じでなかなか事態が進展しないことは多い気がする。

「自分にはこれしかできないから」という覚悟というかあきらめみたいなものがあったほうが、その道を深める力が湧いてくるものかもしれない。

その一方で、「自分はこれをやりたいんだ」という意志からスタートする人間もいて、僕は明らかにそちらのタイプであって、そうやって気分が乗ってこないと何にもやりたくない、非常にややこしいやつである。

で、さらにややこしいことに、僕の場合は「好きなことをしたい」と「はたらきたい」を同時に解決しようと試行錯誤した結果、比較的若い頃にそれが成立し、比較的短期間でそれが崩壊した。

だから僕の今の心境というのは、就職前の人たちとあんまり変わりがなくて、違いがあるとしたら、若い人には「希望」と「可能性」があり、僕には「老獪さ」しかないことだけだ。

いずれにしたって「僕にはこれしかできないから」なんてお洒落なセリフは、今の僕にはとてもじゃないが、言えない。


また、はせおやさいさん(id:hase0831) からは、こんな素敵な言及をいただいた。

「社会に何かを返したい」「好きなものやきれいなものに触れていたい」気持ちをもって、「誰かを幸せにするため」に、「継続できるやり方」で実行すること。
それがわたしにとっての「やりたい仕事」で、「働く目的」なんだなーと実感しました。

元エントリのいぬじんさんと同様、わたしもブログで自分の失敗談を書き続けることである程度は実現できてると思うのですが、それだと経験以上のことは返せないから、社会に関わりながら働くことで、もっと大きい何かを返していきたいと思ってます。

「働く」ことは、世界を変える手段のひとつ - インターネットの備忘録

当方、非常に不真面目なおっさんなので、氏のように真摯な姿勢で取り組んでいる方がいることを知り、まぶしくもあり、うらやましくもあった。

でもたぶん僕も(誰でもそうなのだろうけど)「人に喜んでもらいたい」という根源的な欲求があって、そのあたりを大きくは目指しているんだと思う。



id:n2-krpnさんからはこんな言及をいただいた。

人は誰でも未来を意識しながら今を生きている。この瞬間を楽しくしたいのは当然だし、その中で未来の自分も少しでも幸せにするために勉強(だけじゃないけど)をする。その配分、いつの自分に投資するかは人それぞれだし、毎日のように試行錯誤をするのだろう。

けれどその基盤自体が革新的に変わったらどうなるのだろう。変化に合わせて投資の比率をうまく調節する、というよりは意識の向け方自体を変えざるを得ないとき、上手に対応することはできるのだろうか。

仕事に順応できずに悩む若者やネットで見る中年のボヤキの多くはここに根っこがある気がする。昔のことは知らないけど、たぶん現代人はこの変化への対応につまずきやすい。小さいころから「未来」のことばかり考えざるを得なかったからだ。

大きな拠りどころである「社会的成長」というチャネルを失った時、現代人はどうやってバランスを撮り直せばいいのだろう。

「成長」というチャネルが無くなったときのバランスの保ち方。 - 3歩下がって夢心地

まったくもってその通りで、これまで信じていた「未来」とそれを支える「成長」、という文脈を失った僕は、すごく困っている。

だけど、どうしてくれるんだ、こんなに努力してきた人生の時間を返せ、と言ったところで仕方がないし、言うべき相手もわからない。

うじうじ悩んでいるヒマがあったら次の策を講じるべきなのだ。


しかし、僕は本当に面倒な人間なので、何か新たなことを見つけようとしても、それは本当に人生を賭してやりたいことなのか、と自問してしまい、そのたびに、いや、そこまでのテーマじゃあないなと思ってしまうわけである。

だったらどうすればいいのか。



そこで「ウソ」の出番なのだ。


そもそも、「努力をして成長すれば、輝かしい未来が待っている」とか「お金をちゃんと貯金していれば老後も困らない」とか「ローンを組んで家を買うのが家族思いの良い夫」とかいうのも、基本的には「ウソ」である。

ただ、国民の多くがそのウソに合意することによって、これまでうまく機能してきただけの話だ。

ポイントは、そのウソに対して、自分はもちろんのこと他の人も「乗っかりたい」と思うウソをつけるかどうか、そこだけなのである。


僕が「働くことは、参加すること」と言っているのは、「ウソに参加すること」という意味も含まれている。

仕事なんて、しょせん、ウソなのだ。

だけど、そのウソが人を喜ばせたり、優しい気持ちにさせたり、窮地を救ってくれたりする。

空虚な人生を、ワクワクドキドキしたものに変えてくれることもある。

ならば、できれば好きな感じのウソに乗っかって働きたいし、気に入ったウソが見つからないなら、自分で大ウソをつくまでである。


どうせなら、楽しいウソをつこう。

どうせなら、笑えるウソをつこう。

どうせなら、誰かにも笑ってもらえるようなウソをつこう。


だんだん、そんな気になってきた。


ああ忘れていたけど、この大ウソのことを、別のところではゲンジツとかジョーシキとか呼ぶ地方もあるそうですよ。