犬だって言いたいことがあるのだ。

ものごとをひとつ先に進めるアイデアについて考えています

自分の評判が、気になってしかたがない。







きっとこれまでも、たくさんの人が何度も話してきたことなんだろうけれども。


僕は自分が他人にどう思われるかを、それはもうイヤになるくらい、気にしている。


で、自分なりに周りの声を集めていると、僕はすごくいいヤツだ、という評判もあるし、反対に、ものすごく悪いヤツだ、という話も聞く。

もちろん、僕自身に聞こえてくる内容なんてほんの一部であり、とても偏った内容なのはわかっている。

まあ世の中はそんなものだろうし、もっといえば、僕のことなど、別に何も気にしていないという人がほとんどなので、基本的に考えすぎなのである。


ただ、面白いのは、僕という同じ人間が、あるところでは良い人物であり、別のところでは悪い人物であり、また別のところでは、どうでもいい人物なのだ、ということだ。

それは、僕の周囲というすごく小さな世界であっても、複数の物語が存在し、その中の登場人物としての描かれ方が異なっている、という証拠である。



これから僕はしばらく、物語というものを大事にしていきたいと思っている。

物語とは、一体、何だろう。



物語は、世界の見かた


他人から見れば、ただ会社と家の往復を繰り返しているだけの僕だが、僕の中では色んなできごとが勃発し、それなりに起伏の激しい人生を送っていると思っている。

あるいは、職場の女性に片思いしている人は、切ないラブストーリーの中で毎日を生きている。

逆にとんでもなく充実した生活をすごしているように見える人でも、本人はこの世は地獄だと思っているかもしれない。


人は、それぞれ自分の世界を、見ている。

それぞれの世界を、生きている。


同じ世界を生きていると思うのは、同じ物語を部分的に共有しているからにすぎない。

ここに会社というものがあることにしましょう、お金というものがあることにしましょう、得意先はエライことにしましょう、家族というものがあることしましょう、ということで「いったん」手を打っているだけである。



物語は、他人と一緒に作っている


自分語り、とよく言うけれども、純粋な自分語りをしている人はほとんどいないだろう。

自分だけの物語の中にも他人は存在するし、誰も、たとえばコンビニのお姉さんさえ、登場しなかったとしても、誰かが作った建造物の中に住んだり、誰かが育てた農作物を口にしたりしていることだろう。

僕がどれだけ自分の人生を都合よく語っていこうとしても、自分が今向き合っている現実と、そこに存在する人々を否定することはできないし、そもそも否定するという行為自体が、それを強く意識している証拠なのだ。


そんなわけで、僕は自分の物語における他人を受け入れざるをえない。

と同時に、自分も他人の物語の登場人物になっている可能性も受け入れたい。

そこで、僕は非常にいびつな姿として描かれているかもしれないが、それがその人から見た僕なのであり、それを認めるところから、相手との物語の共有が始まる。

まあ別に受け入れたくなければ無視すればよいだけだし、聞き流せばよいこともあるだろう。

ただ、気をつけておきたいのは、誰かの物語を強く否定したり攻撃したりしても、その物語を消滅させることができないばかりか、諸悪の根源なりラスボスとして、その物語に回収されていくだけだということだ。



物語は、続いていく


これはあくまで僕の世界だけの話だけど、まだ僕はアーカイブとしての物語に強い関心を持ててはいない(そのうちそういう時も来るかもしれない)。

今のところ、僕が自分の物語を紡ぎ続けるのは、その続きが知りたいからである。


僕は異常なほど未来に執着している。


未来は今よりも面白く、楽しいものになると、期待している。


だからこそ、そうなるための理由が必要なのだ。

屁理屈であっても、大げさな修辞があっても、かまわない。

明日は今日よりも面白くなると、自分が信じられる物語があればいいと思っている。


ただ、残念なことに、この物語は僕1人で語っていくことができないし、僕自身がその物語の主役でい続けるわけにもいかないだろう。

だから他人の物語にも耳を傾けたいのである。

ほんの少しでも、何か共有できそうな面白い舞台装置とかないかな、とか、ブログばっかり書いてるおっさんという脇役の出番とかないかな、といつも様子をうかがっていたいのである。



そんなわけで、僕は今日も、自分が他人にどう思われるかを、それはもうイヤになるくらい、気にしている。