犬だって言いたいことがあるのだ。

ものごとをひとつ先に進めるアイデアについて考えています

おっさんは、まだ本気を出せるのか。




本気、についての熱い議論が起こっている。

お祭り好きとしては黙っていられない。

おまけに僕もここのところ、本気、というテーマについて考えていたところだったので参加してみよう。


わっしょーい




ここぞって時に本気になれる人となれない人の違いは、当事者意識の有無です。

人生には何度か「ここぞ」って場面があります。そこで上手くいくかどうかでその後の人生が大きく変わってしまうような場面――あるいはそこまでじゃなくても、重要な転機と思われる場面。その時心の底から当事者意識をもって臨める人が「本気になれる人」、そうでない人が「本気になれない人」です。

本気になれない人には「当事者意識」が足りない - ゆーすとの日記

必死になって本気を出して盲目になることって生きていく中ではかなり危険と隣り合わせの状態だとも感じる。その状態の時って周りが見えてないし誰かを無意識に傷つけたり蹴落としたりしかねないし、選択肢を自ら狭めてるから「もし失敗したら」という部分の対応策を全く考えてはない。そこまで含めて本気で考えることとか行動出来れば良いんだろうけど、自分を客観視出来るような状態の時って僕の中では本気ではない。冷静に自分の行動を見る事が出来る時は僕の中では冷めてる状態の時だと感じる。

僕の中での本気 - 見たまま感じたままに

「本気になる」ために「当事者意識を持つ」と一口に言っても、そもそも「当事者意識を持てない」物事もあるんじゃないだろうか、という話。

 いくらがんばろうと、努力しようとしても、それが周囲から押し付けられたもので、本当はやりたいことじゃなかったり、疑問を感じたりすることだってあるはずだ。それでは、「当事者意識」なんて持てるはずもない。だって、「自分ごと」じゃないから。

与えられた物事に「当事者意識」を持つのは難しい - ぐるりみち。

この手の議論を展開する人たちをたくさん見てきましたが、自分たちの議論の柱となるキーワードであるはずの「勇気」や「当事者意識」について、自分の言葉で、自分の責任をもって定義しているのを見たことがありません。

議論の柱の部分であるいもかかわらずその部分を自分では定義せず、読み手にその解釈を委ねている。「都合よく読んでくれることを」勝手に期待し、押し付けている。

ゆーすとさんへの質問 - それはそれとしてとりあえず


さて僕は、やっぱり本気を出すには当事者意識は必要だろうな、と思っている。


当事者、というのは、ここはオレがなんとかしなければ、他の人間ではなんともならんだろう、と認識せざるをえない状況にある人のことだと思う。

まあたしかに受験や就職活動といったものは、自分のためにやることなので、取り組む本人はそもそも当事者なのである。

本気で取り組まなければ、それなりの結果しか得られないこともあるだろう。

問題が深刻になるのは、関係者が複雑に入り乱れはじめる時だ。

この案件が「おいしくない事案」だった場合、自分が当事者なのかどうなのか決めかねる状況だと、オレ関係ないもんねという選択もできたり、あるいは他のみんながそれを採択した結果、自分だけが当事者に無理やり仕立て上げられることもある。

「おいしい事案」の場合は、我こそが当事者になろうと単純に競争なり足の引っ張り合いが起こるだけである。

そして実際はこの両方がぐちゃぐちゃに入り組んで、日々の暮らしは成り立っている。

それぞれの場合において、各自がどれだけ本気になるべきか、これはあまりにも難しい問題だと思う。

そして、みんなこれまでの人生に対してそれなりに本気で取り組んできてるわけだし、その結果、自分の力ではなんともならないという苦い経験を何度も味わってきているわけだ。

だからこそ「本気を出せないのは当事者意識がないから」みたいな話を聞くとモヤモヤする。


それでも、僕はなるべく「当事者意識」を持ちたいと思っている。

もっと言うと、そろそろ目の前の「おいしい事案」と「おいしくない事案」についてソロバンでパチパチやるのを減らしていきたいと思ってる。



別に聖人君子になりたいわけではない。

単純に、つまらなくなってきたからだ。

限られた資源を奪いあって、自分のポジションを守るために隣の人を谷底に突き落としたり、協定を結んでるふりをしながら裏で暗躍したり、そういうのには飽きた。

精神衛生上もよろしくないし、こういう損得勘定だけの思考を続けていたせいで、いつのまにか胸の奥にあったはずの情熱がすっかり冷めてしまっていた気がする。


当事者、というのには色んなフェイズがある。

例えば、色んな人が注目しているプロジェクトのリーダーとして取り組むことだけが当事者ではない。

雑魚キャラとしてみんなのために露払いをする、ということが自分の役割だと認識していれば、その配役を演じきるという当事者意識がそこにあるのだ。

今の僕は、そこしか配役がないならば、その雑魚キャラを徹底的に演じ切りたいと思う。

本気の雑魚キャラをやりきりたい。

主役になれない悔しさをちゃんと抱きしめつつ、序盤で豪快にやっつけられて、見事に吹っ飛んでみせたい。

そのやられ様があまりにも見事なせいで、これまで主役にばかりなりたがってた連中が、雑魚キャラやばいよ、かっこいいよ、オレたちも雑魚になろうよ、雑魚に!雑魚がいい!うるせえこの雑魚が!いやだって雑魚って言われても実際雑魚だし!あーもーうるさいな、もーいいよ、雑魚かっこいい、それでもーいいよ!という状況を作りたい。

そうなれば、ここに新たな価値が生まれる。

新たに本気になれる人も増えていく。

なんともワクワクする話じゃないか。



人生にはあきらめも肝心だな、と思うことが増えた。

しかし、それは人生自体をあきらめるという意味ではない。

どうにもならない過当競争に挑み続けることをあきらめて、つまらない日常やかっこ悪い生き方を受け入れる、という意味だ。

かっこ悪い自分という当事者意識を持って、その中でできることを見つけて、本気で取り組む。

他の誰がどう思おうと、自分だけは夢中になって取り組む。

そうすれば、退屈な人生にも少しは刺激が戻ってくるんじゃないかな、と非常に自分本意に思っている。

さすがに、自分の人生の物語においてだけは、自分が主役でいさせてほしいのである。



まあ、本気ばっかり出してると疲れるので、たまにはダラダラさせてほしいのも事実だが。