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犬だって言いたいことがあるのだ。

ものごとをひとつ先に進めるヒントについて考えています

長いあいだ、音楽をちゃんと聴いてない。






音楽をちゃんと聴かなくなってから、かなり経つ。


学生の頃は、食費よりも音楽に使うお金のほうがはるかに多かったから、音楽のためにバイトをしていたようなものだったし、移動中も作業中もとにかくずっと聴いていた。

音楽にこだわりを持たない人間がいたら、そいつはポリシーのないダメなヤツだとすら思っていた。

しかし、多くの人がそうであるように、就職の前後のバタバタの中で、どこかに音楽への関心を落としてきてしまった。

おまけにそれまでひどく偏った聴き方をしてきたせいで他のジャンルの楽曲に触れる機会も少なかったので、いつのまにか音楽自体を「なんだか苦手っぽいもの」カテゴリにすら分類してしまっていた。

音楽に関する知識やら何やらがそれなりに必要な状況になると、その都度無理やり聴くし、そのたびに面白いなとは感じるけど、やっぱり「ちゃんと」聴いていないと思う。

他に言い方が見当たらないので申し訳ないが、要は音楽に対してちゃんと敬意を払い、それがなぜ好きだと思うのかをちゃんと考え、そして心ゆくまでちゃんと楽しむような、そういう態度で接することがなくなった、ということだ。



id:rem-nanaiさんの少し前のエントリを読んで、そうだな、と思った。

アーティスト達は、音楽に共感を問うたのである。
他人に共通点を求め、自己が何であったのかを思い出すために。

確かに「私」は、誰でもない。
他人が見る、薄っぺらいイメージなんて糞食らえだ。
だけど、共感してくれる人々の中に、本当の自分がいた。
音楽は、私が何物であるかを、思い出させてくれた。

2013年の音楽シーンと、自己の再発見 - Revolve Air

音楽というのは、価値観を超えることができる。

人は音楽を聴いている時、その音楽の先に同じように楽しんでいる他の人の存在や、またその音楽が生まれるために関わってきたさまざまなつながりの存在を感じているのだろう。

実際、ほとんどの音楽というのは、人類が登場してから脈々と受け継がれてきた音楽に対する研究成果の何らかの部分を背負って生まれてきているわけで、そこからの脱却を狙った即興性の高い音楽ですら、カウンターという文脈を(不本意であったとしても)担ってしまう。

まるで遺伝子のようだ。

その遺伝子が受け継がれるための条件は、できるだけ多くの人から強い共感を得られること。

音楽を聴くということは、壮大な社会的生殖活動に関わるということなのだろう。



結局、働きはじめると音楽を聴かなくなるのは、自分が新たに属することになった社会や組織の文脈を学ぶことに必死になっているうちに、音楽が持っている社会的なつながりや喜びといったものへの関心が薄まるからなのかもしれない。

それは人間が社会的な生き物である限り仕方がないのだろう。

そして、人によっては、しばらくしてからまた改めて音楽の素晴らしさに気づき、新たな世界に再接続されることもあるだろう。

ただ、僕に関して言うならば、まだそういう機会はやってこない気がしている。

特に、再び何か一つの音楽にこだわって、求道者のように深くのめりこんでいく状況にはならないだろう。

その代わり、最近はラジオを聴くことが増えた。

ジャンルも年代もめちゃくちゃに流れてくる音楽たちや、パーソナリティたちの軽妙なトークを聴いていると、妙にホッとすることがある。

ラジオの向こうから、過去から現在へとつなぎとめられてきている人間の営みが感じられる。

そして、自分自身もその文脈の中にリスナーとしてほんのりとつながっている。

それくらいの距離感がいまは心地良い。


音楽に限ったことではない。


何もかもを把握しようと躍起になって積極的に関わろうとするよりも、バカみたいにうすぼんやりとしたつながりを保つだけの関係性を肯定する態度。

それを最近は大事にしたいなと思っている。

別に達観しているわけではない。

むしろ、そういう態度でこの世の中と再接続されることによって、これまでよりも多くの人々とつながったり、これまでよりもずっと面白い経験ができたりするはずだという、非常に計算高い大人の悪知恵なのだということは、明言させていただくことにする。