おっさんの、なり方。







ちゃんとおっさんになるための方法がわからない

僕はだいぶ前から早く30代になりたいと思っていて、実際になった時も予想どおり、悪くないものだった。
仕事もやりやすくなってきたし、気持ちに余裕を持てるようになったし、以前よりモテるようになった。
しかし、楽しい時は一瞬で過ぎ、もはやアラフォーのおっさんである。

最近、特に自分で自分がイヤになるのが、おっさんの心というのは非常に繊細で、自分では「オレみたいなおっさんはさ」とかいうクセに、他人から「あんたはもうおっさんだから」と言われると実は内心ヘコんでいて、そういう自分がいることにまたヘコむわけである。

しかし世間的にはもう立派すぎるほど立派な大人として認識されてしまうお年頃。

不惑で思慮深く頼りになるおっさんであるフリをせねばならぬ。

一体、この危機をみんなどうやって乗り越えているのだろうか。

中年危機なのか人生の正午なのかワークシフトなのか知らないが、コソ勉するには情報が足りなさすぎる。

世の中には、ちゃんとしたおっさんハックはないのか。

知りたいのはアンチエイジングじゃなくてエイジングなの

中年の読む雑誌に目を通すと「いかに若く見せるか」ばっかりが特集されていて、まあ試しに妻の化粧水をこっそり使ってみてなるほどちゃんと手の体温で温めてからなじませると角質の奥の奥まで浸透してる気がするけど、それが知りたいのではない。

どうやったら、無事にちゃんとした中年男性へと年を取れるのかが知りたいのだ。

それとも、スキンケアすらもちゃんとできないおっさんは、おっさんとは呼べないのか。

あるいは、見た目の老化を抑えて時間稼ぎをしている間に中身を成熟させようという魂胆なのか。

だいたい成熟、って何なのだ。

さっぱりわからない。


ちょいワルはヒントにはなるが

以前流行した「ちょいワルオヤジ」は「加齢というハンデを逆手に取る」という意味で非常に面白いコンセプトだったと思う。

メタボなボディを「ちょいムチ」と称して大人の余裕へと転化したり、若さを謳歌する年下の男たちを「小僧」と見下すことで自尊心を取り戻させたりと、素晴らしい発想の転換があった。

ただ、ちょいワルオヤジというのは、あくまで本人がいくつになっても主役であり続けたいという願望に基づくものであり、しかし実際のおっさんというのは色んな場面で脇役になる回数が増えてくる。

そんなおっさんにとって必要なのは「ちょいワル」のなり方だけではないだろう。


おっさんは自分が好きじゃないとやってられない

何度も言うが、おっさんの何が厄介かというと、自分がどう思っていようが周りは自分をおっさんだと思っていることだ。

つまらないミスをするとベテランのクセにと陰口を叩かれるし、若い女性をジッと見てしまうと笑顔の代わりに舌打ちされるし、後輩たちに混じって食事しようとすると明らかに迷惑がられる。

残念ながら、もうその場にいるだけで厄介な存在になってしまっているのだ。

だから結局、おっさんのことをちゃんと理解してあげられるのはおっさん自身でしかない。

それを支える要素がちょいワルオヤジだろうが妄想上の妹だろうがなんでもよろしい。

自分だけは自分を愛してあげなきゃ、やってられない。

あと、大事なのは、それを他人に求めないことなのかなとも思う。

辛い時はこうやってブログの自分語りに逃げるにゃん。

はてなおっさん枠も、ください。


おっさんには夢の続きが必要なんじゃないか

おっさんは、無駄に長く生きてるので、色々と見えていなかったものが見えてきてしまう。

世の中の構造とか、人の心の移ろいやすさとか、一度失ったら取り戻せないたくさんのものとか。

あるいは、自分だけで達成できる夢なんて、そもそもほんのわずかなんだということとか。

それらに気づかないフリをして、若い頃の初速の勢いだけを頼りに飛び続けるにはだいぶ無理がある。

ちょっと立ち止まって、あらためて自分にとって大切なものについて考え直すのも悪くないんじゃないだろうか。

そのプロセスの中で、これまで見ていた夢は強制的に終了させて、新たな計画を描くのも楽しいことだと思う。

それは全く新しい種類の夢じゃなくていい。

人生をある程度進んできたからこそ確保できるようになったアングル。

そこから見る、新たな夢の続きだ。

僕はいま、そのあたりの、ちょっとこれまでとは違った景色から、自分の人生を見直している最中なんだと思う。

 
ただ残念なのは、結局、おっさんになる方法はそれぞれが見つけるしかなさそうだということだが。

だから、はてなおっさん枠ください。