父親の、なり方。




はてなブログには、ついに位牌ブロガーも登場し、ますます混沌としてきて素敵だなあと思う、今日のこの頃。

無事に家族も寝静まり、父親という配役を終えさせていただきまして、こんばんは、いぬじんです。


少し前のエントリなんだけど、ズイショ氏のこれに感想を書く。

映画「そして父になる」観てないのに父になることについて書きました。父じゃない人が。 - ←ズイショ→

僕が抱える一番の不安というのはまさに映画のタイトルどおりで「俺はいつ父になるのか?」てことなんですよね。かわいい嫁さんが母になり家族が一人増えることについては全く吝かではないのですが俺はいつ体感として父になるんだよっていうのが正直よくわからんのです。

ただ実生活で出会うパパにちょちょっと訊いてもそんな膝を打つような回答は返ってこないしな。高い共感力を兼ね備えてるのでそこで躓く理由がないのか何らかの理由で俺には本音を教えてくれてないのか彼らもまだ実感としてはよくわかってないのかはよくわからないけど。

つい5分前まで父親役を全力で演じ切って消耗しつくした自分には、ズイショ氏の手を無理矢理につかんでその膝をしたたかに打たせるくらいのエネルギーはもう残っていないのだが、まあ正直に僕の場合のことを書こう。



結論から言うと、僕はすんなりと父親になった。


それは別に高い共感力を備えていたからでもないし、昔から父親になりたいと願っていたからでもない。

むしろ若い頃から赤ちゃんや幼い子供を見たってかわいいともなんとも思わなかったし、はっきり申し上げると今でも他人の子供をかわいいなどとは思わない。

「かわいくねえな」とは思わなくなっただけである。

それから、赤ちゃんや子供を見て相好を崩し、かわいいな~よちよち~といかうヤツも大嫌いだった。

うそつけ、てめえそこで好感度アップさせてどうするつもりだ、それとも隣でぼーっと見てるオレの好感度を相対的に下げようとする高等テクニックか何かなのか、とすら思っていた。

そんな僕が迷わずに父親なるものになった理由は簡単である。


生まれたばかりの自分の子供を見て、こらアカン、と思ったのだ。


無力すぎる。

何やら不器用に足を動かしたり口をパクパクさせてはいるのだが、これはもう生き物としてはあまりにもダメである。

たぶんほうっておけばすぐに生命活動が停止されるであろうことが、見た瞬間にわかるのだ。

これはエライことになったな、と思った。

妻と僕にその気がなければ、この生き物は生きていけないのだ。

まったく、とんでもない話だ。


それだけではない、おそるおそる抱き上げた時の頼りのなさよ。

首なんかもう本当にグラグラで、こんな状態で生まれてくるとか、絶対、後先のこと全然考えてない。

誰かがきっとなんとかしてくれるだろう、ってものすごい甘い見通しのままやってきたとしか思えない。

明らかに、他人頼りなのである。


おまけに、どうやら妻も同じようなことを感じていたらしく、口では良かっだのなんだの言っているのだが、明らかに戸惑いの表情を浮かべている。

もういい加減にしてくれ、と思った。

まがいなりにも食物連鎖の頂点たる人間さまの子供として生まれるのだから、もう少ししっかりした状態で、ちゃんと準備をしてから来るのが礼儀ではないのか。

まるで自分が生まれた瞬間から誰かがちゃんと面倒を見てくれて、定期的におっぱいも飲ませてくれて、少しずつ大きくなるのを地道に待ってくれるのが当たり前のような、そんな態度で臨むなんて、ずいぶんじゃないか。

しかし、親になるというのは、そういうことなのだ。

未来からの無謀な挑戦を受けるということなのだ。

それに対して僕らにできることは、受けて立つか、それとも断るか、二つしかない。


それで僕は、その日のうちに父親になった。



そんなわけで、今でも僕は子育てに対して何の見返りも求めていない。

常に、長期的に見れば決して勝つ事のできない戦いを強いられ続けているだけだ。

さっさと自分を打ち負かしてくれる日が来ればいいとすら願っている。

無事に子育てを終えて、仕事のことばかり打ち込めばよかったあの頃に戻るのを楽しみにすらしている。

ただ、一緒にエバンゲリオン展を見に行ったり、ウルトラマンギンガごっこをしたりして、自分もちゃっかり楽しんでたことは、なかなか忘れられないだろうなとは、覚悟している。