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犬だって言いたいことがあるのだ。

ものごとをひとつ先に進めるヒントについて考えています

恐ろしい死、というフィクション。






死が恐ろしいもの、忌むべきものだという考え方は、どうも昔からあったわけではないらしい。


赤坂憲雄さんの『東西/南北考―いくつもの日本へ―』という本によれば、日本各地の過去の人々の暮らしをひも解いていくと、決してすべての地域が、死を「ケガレ」として忌む対象としてきたわけではないそうだ。

人々が生活する「居住区域」と「お墓のある区域」に境界が設けられていない地域も、たくさんあるそうだ。

むしろ、「死というのものは怖いもので、生活の場からは極力遠ざけなければいけない」という通念こそ、畿内を中心に作られた社会的創造物なのだとすら、赤坂さんは主張している。

まあそれを鵜呑みにするかどうかは保留にするとして、いずれは僕にもやってくるべき死というのものに対して、昔々の誰かが勝手に考えた作り話にとらわれたまま、恐怖におののきっぱなしなのだとしたら、シャクだとは思う。



今、死についての2つのエントリがある。


アラサー♀が『おひとりさまの老後』を読んで考えてみた。 - (チェコ好き)の日記

私は、人生が終わるその時には、(苦しくてそれどころじゃないかもしれないけど)1人でゆっくり、これまでの人生に「楽しかった! ありがとう!」って言いたいんです。家族や友人や医者や看護婦に囲まれてザワザワされたら、そっちが気になってゆっくりお別れなんていえない。むしろ積極的に1人で死にたい、と思っています。後片付けをしてくれる人に最大限の配慮さえすれば、私の場合「孤独死」は問題ないです。

「「死に方」を考えることはすなわち「生き方」を考えることにつながるような気がします。」


「絶対孤独のなかで死ぬ」覚悟があるか? - ICHIROYAのブログ

社会の高齢化は、ますますすすむ。
 一人っ子同士の結婚なら、夫婦は4人の老人を抱えることになり、4人の死に様をみとらないといけない。
 共働きでやっと暮らしていける今の厳しい社会情勢のなかで、子どもたちに介護の負担を負わせたくはない。
 しかし、結局、ある程度のお金を残してやるということ以外に、できることはないのだ。

最近、こんな風にも考えるようになった。

 どんな覚悟をしても、自分の死に様は、自分では、けっしてデザインすることができない、のだと。


いずれもそれぞれの立場で、自分にとっての「死とは何か」について考えを深めている、面白い記事だ。

このようにして、各々が死について考えることは、過去の作り話から脱却するために、すごく有効だと思う。



もちろん、いずれ人間は死ぬ。

しかしこれを過剰に恐れるあまり、必要量をはるかに超えたお金を貯めこんだり、自分の権力や権威を保つのに異常に執着したりして、人間がおかしな生き物へと変貌していくのを見ていると、なんだか極端すぎる気がする。

今は、「死は恐ろしくて、忌むべきものだ」という通念は、本来の役割(病原菌の感染を防ぐとか)を超えて、メタファーとして機能しすぎていると思う。


たとえば、「プロダクトライフサイクル」。

世の中の商品やサービスは、みな導入期からはじまり、成長期、成熟期、衰退期、というライフサイクルを歩んでいくといわれている。

そして、やがて訪れる「死」が来る前にイノベーションを起こさないといけない、ということばかりが喧伝されている。

イノベーションによる「再生」と「成長」ばかりがもてはやされ、衰退を止められなかった商品やサービスたちの死をどうやって看取るのか、という話にはならない。


あるいは、ゴミなどの「リユース」とか「リサイクル」もそうだ。

僕らが色んなものを消費し尽くして、不要なゴミとなったものが、リサイクル処理によってまるでみんな新しい生命を得るような表現をよく見るけれど、そんなはずがない。

しかし、消費というものがいかに取り返しのつかない行為なのかという議論には、まずならない。


僕らは「死は恐ろしい」ということを信じすぎるあまりに、イノベーションなりリサイクルなり、「生まれ変わる」という寓話をすんなりと受け入れてしまうのだ。



これは非常によくできたフィクションであるので、信じたい方は引き続き信じていればいいと思う。

ただ、もう僕はこの手の話に辟易しているので、別の考えを試してみたい。

それは、死を受け入れる、というものだ。

自分は毎秒、毎分、死に近づいていて、それは場合によると今すぐやってくるかもしれない、という状況を受け入れてみる。




自分の命だけではない。

世の中のほとんどのものは「取り返しのつかない」ものなのだ。

みんな、死に向かって、常に進んでいく。

生まれたばかりの企業も、衰退していくサービスも、今にも死にそうな老人も、それぞれが、その瞬間の命の輝きを放っている。

そういう仮説のもとで生きていれば、これまで汚いと思っていたことや、ムダだと思っていたことにも、色々と意味があることに気づくと思う。

周りから「終わった」と思われているコンテンツや、「老害」と言われている現象にも、それぞれに味わい深いものがあることに気づくと思う。

新しいアイデアというものは、そうやって死を見つめるところから始まる気がしている。


さて、こういう知覚の仕方を、かつての人は、思いやり、と呼んでいたと思うのだが、これは僕の記憶違いだっただろうか。



東西/南北考―いくつもの日本へ (岩波新書)

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