お笑いが、苦手です。






コテコテの関西人だけど、お笑いが苦手だ。

いまだに関西人は誰もが面白いことを言えると信じて疑わないピュアな人と出会うことがあり、そんな期待に満ちた目で見つめられても、何にも出てこないですよと、迷惑にすら思っている。


今、感想をブログで書いてもらえると喜ぶグループ界隈(でもないか?)で、お笑いを巡るこんなやりとりがある。

ヤマネ ショウさん(id:sho_yamane)が
関西人からしたらダウンタウンがディスられてるのが悲しい - 無意味の意味
というエントリの中の

今の僕があるのは、ダウンタウンのおかげだと思ってる。もちろんダウンタウンの他に番組は「タモリ倶楽部」、人物は、みうらじゅん中島らもリリー・フランキーのように影響を与えてくれた要素はたくさんあるが、一番大きな影響を与えてくれたのはダウンタウンだと思う。

 自分のトーク術や処世術っていうのは、ほとんどダウンタウンから学んだものなんですが、27歳になった今でもめちゃくちゃやくにたちました。

という部分についての感想を、ズイショさん(id:zuiji_zuisho)が
ダウンタウン以前以後みたいなものはやっぱりあるような気がする - ←ズイショ→
というエントリで、

元記事の人がたぶん学年1コ下くらいだったのでダウンタウンの直撃っぷりは大体同じ感じかなと思います。原風景としては俺がごっつ観たいのに親父が頑なに大河ドラマ「秀吉」を見たがって毎週大揉めしてたのとか覚えてますね。

という認識の上で、

ダウンタウンの登場によってそれまでの芸人さんの影響力なんかメじゃないくらい僕らの日常の会話のやりとりってのは大きく変化したんじゃないのかなぁみたいなのを何となく思うんです。

ダウンタウンの面白さというのをそれまでの芸人と比べた時、それは「特質的な芸」ではなくて「一般的な技術」のように世間には見えたんじゃねぇかなという仮説です。で、面白いことを言うというのは「芸」じゃなくて「技術」なんだという見え方になった時何が起こったかというと「みんなある程度できる(はずだ、あるいはべきだ)」みたいな空気が発生したんじゃねぇのかな、と。

特にそういう人前で面白いことを言おうとするのがあまり好きではない人とかに、あの時期どれくらい空気が鬱陶しい感じに変容してたとか変容してなかったとか、なんかそういう話があればすげぇ読みたい。以前もロールモデルとして明石家さんまとか紳助とかがいて人に面白さを強要するウザいやつはなんぼでもいたよ、みたいな話であればごめんなさい妄言でしたで終わるのでそれはそれで別に良いですし。

と書いた。

なので、僕の場合はどうだったかしらんと、少し振り返っていた。



僕は、ダウンタウンさんがキー局の冠番組を持つようになった頃にはもう高校生だったし、その頃には僕の「お笑い」に対する意識は「なんだか苦手なもの」として固定化されてしまった後なので、そこに大きな変化が生まれたのかどうかは、実は思い出してみてもよくわからない。

どちらかというと、仕事をはじめてから、打ち合わせなり、飲み会なり、合コンなりで、周囲の人の笑いに対する異常なほどの執着を見るようになった気がする。

その時、すでに「お笑い」というのは、ズイショさんが書いているように、一部の特殊な芸を持つ人々の特殊能力ではなく、誰にでも備わっているべき「教養」であるという暗黙の認識があったと思うし、面白いことが言えないやつは、仕事のできないやつだという空気すらあった。

まあ極端に偏った例なので一般論としては全く通用しないと思うけど、僕はこの非常事態を乗り越えるために必死に、笑ってもらえるためのキャラを作り込んでいた。

実際に、「受けるキャラ作り」に腐心しすぎた結果として、人生設定自体が大きくそっちに振り切れてしまう人々も何人もいると思う。


まあそんな「お笑い地獄」からの脱出の仕方は非常に簡単であって、その部分での良い評価をあきらめることである。

「お前は、まったく面白くないやつだ」と直接言われても、ええすみません、でも本当にそうなんですと、受け入れることである。

数年前に、僕はそう決めたので、今は特別面白いことを言えなくても特に不安にはならない。

ただ、いまだに「面白いこと言おうぜ」という空気が充満している場に出くわすと、妙な脂汗がじわりと出てくるのである。



ところで、少し不思議だな、と思うのは、もともと「笑い」というものには、既存の権力や硬直化した社会に対する抵抗や批評としての機能もあったんじゃないかな、ということだ。

たぶん、ダウンタウンさんが受け入れられた理由も、出演者全員をいじるという、それまでのテレビの世界に対する強烈なアンチテーゼがあったのだろう。

だから、もしその笑いを僕らの社会に応用するならば、会社の社長や役員を、本人の前で平社員がいじったり、得意先の人物を営業マンが茶化したりすることが、順当なのだろう。

実際に、そういう場面を見かけることは増えたようにも思うし、それをけしからんと怒っている年配の方も増えたとは思う。

しかし、もはや「教養」あるいは「文化」として吸収されてしまうと、それはすでに権力者側の技法であるし、それを同じような立場にある人同士の中で使ってしまえば、ただのマウンティング行為にすぎない。

まあ、このプロセスに関しては、これまでの多くの芸能や芸術がたどってきた道であるので、一種の運命なのかもしれないし、少なくとも僕は人々の共通の作法としての「お笑い」がこの世からなくなっても特に困らない(笑うこと自体は大好きですよ)。

ただ思うのは、せっかく「素人いじり」を通して、「特殊能力を持っていない人でも面白い部分を持っているんだ」という認識が広まったのだとしたら、それを「いじってバカにして笑う」という以外の方法によって、うまく拡張できるといいのにな、ということである。

この世の中に生きる人々は、それぞれが隠しようのない個性を持っていて、普通の人など存在しない。

その事実に気づき、お互いの存在のかけがえのなさを認め合い、それぞれが歩んできた人生について味わいあう。

そんな視点が生まれているのであれば、大事にしたいなと思う。


そもそも、笑いは、人生の苦しさを喜びに変えてくれるものだったと思うが、これは僕の勘違いだろうか。