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犬だって言いたいことがあるのだ。

ものごとをひとつ先に進めるヒントについて考えています

明日の僕は、今日とは違うことを言うと思う。




なんだか、面白そうなことになっている。


id:yarukimedesuさんの
an・anの女子力終了・「呼ばないで」って、お前らが女子を自称しだしたんやないかい! - ナカノちゃんねる

女子力を測る一つのバロメーターとして「an・anに特集される」というのを上げてましたが、ちゃぶ台をひっくり返されたような気分です。

たしかに僕の周りの女性たちの多くが、自らに「女子」という呼称を使うようになってから久しいし、僕も面白いから「そのボールペン、ムダに女子力高くね!?」とか乗っかっていた。

しかし当の女性のほうから、実はもう女子とは呼んでほしくないんだと主張されると、そりゃ言われたほうは、いや・・別に・・そっちが先に言ってたんじゃ・・・いや、なんでもない・・・その・・・ごめん・・・と、なってしまう。

実に素晴らしいマッチポンプである。

でもまあ、こういうコンテンツは、これくらい無責任で乱暴なほうがいいと僕は思う。

女子だの、女子じゃないだの、これからは大人だの、オバチャン力だの、いやそんな流行は来ないですよねだの、わちゃわちゃ騒いで盛り上がって楽しめばいいのである。

以前にも書いたように、
答えを出すことだけが、答えではない。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。
ムダなお祭り騒ぎこそ社会貢献なので、どんどんやっていけばいい。



しかし、これが個人のこととなると、やや事態は深刻である。

一度、他人が自分に対して抱いたイメージや印象というのものは、簡単には変わらない。

「今まではインテリっぽいイメージだったんですけど、そういうの、もう困るんですよね」とか、なかなか言いづらいし、そんなことを気にしていると思われるのも恥ずかしかったりする。

id:kamuridoさんの
「っぽさ」 - おれ文庫

俺っぽさは俺が認知していない部分で他人が認知して集積したものを他人から伝えられた時のものだと思う。確かに、僕が緑色が好きな事は知っているし、そういうものを集める習性があることも知っているけれど、自分が気付いてしまった後にもそれを続けていると 俺っぽさの演出:俺 みたいなダサさを感じる。ダサいことは嫌いです。

というあたり、すごくさわやかな美学を感じるし、僕なんかはかなり長い間、他人が自分に対して感じる「っぽさ」を異常なほど気にしていたので、そういう潔さが素敵だなあと思う。

つまりは、「他人によって再定義される自分を演じ続ける」自分というものをどう扱うかという問題だ。

まあ、それが仕事そのものであるタレントやアーティストと会うといつも思うのは、結局は「そんな自分を演じることが好きかどうか」だけなのかもな、ということだ。

仕事のすべては、お芝居。

それは別にサラリーマンでも同じで、顧客の満足度を高め社内調整に奔走し会社の価値向上に貢献する、という社畜たる自分を演じているにすぎない。

しかし、その事実が巧妙に見えにくくなっているのが世の中である。

そのあたり、みんなさっさと認めてしまえばいいのにな、と思う。

そうすれば「あの、僕のキャラクターなんですけど、そろそろインテリっぽいキャラをやめて、実はワイルドなところもあるんだぜっていうイメージ出していきたいんですよね、その代わり先輩のその聞き上手で面倒見よさげな設定を変更する時は協力しますから」という取引も気軽にできるようになるはずである。



話をもっと進めよう。

僕はここのところ、そんな風に、お互いに「キャラの設定は変更可能である」あるいは「やや長期にわたって主張していたことも、それなりに変更可能である」という符丁が通用する世界になってほしいな、と思っている。

それは『なめらかな社会とその敵』に書かれている「個人を一貫性から解放する」という話からの影響も大きい。
『なめらかな社会とその敵』を、なめらかにしてみた。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。

まあ、分速、秒速のレベルで言うことがコロコロ変わると色々と不都合が発生するかもしれないけど、「自分は以前にこんなことを言ってしまったから、もう後には退けぬのだ、こうなったら戦争しかないのだ」的な生き方は本当にイヤでイヤでしかたがない。

つまらない「ええかっこしい」のために他人に迷惑をかけることも、かけられることも、大嫌いだ。

かっこわるくてもいいじゃないか、生きているんだったらいいじゃないか、そういう前提をちゃんと共有したい。


なんて「ええかっこ」したけれど、実はそのあたりは、

id:shiraber氏の
感じたことを言葉にしてみること〜ゲシュタルトキャンペーンなう - 大人の学びをファシリする Carpe diem / Memento mori

ゲシュタルト心理学では、「いま、ここ」で感じていることにフォーカスをする。過去は変えられない。そして原因も追求しない。いまここで過去にとらわれているその状態を問題として、どう感じているか、を問うていく。なぜ、は禁句である。いいね。なぜなぜ病に囚われた現代社会に嫌気がたまにさしませんか、そうですか。

そんで、感じていることを自覚した上で、自分はどう責任をとっていくか、じぶん事に接続することが出来たら、それは素晴らしいことなんだと思う。このあたりはまだしっかりと腑に落ちていないが、自分が感じていることは、自分が選びとったことなのであって、そんな自分に責任をとることがゲシュタルト心理学=実存的立場ということだという。ものの見方は多面的で、どの認知を選択するか、ってこと。

の受け売りである。


僕らは「いま、ここ」を生きている。

そして、「いま」は「未来」にしか接続していない。

だとすれば、大切なのは、どうやって「いま」与えられている命の喜びを味わうか、そして未来へとそれをつなぐのか、それだけじゃないのか。

そんなわけで、僕は今日ここで書いたのとは全く違うことを、明日は言うだろう。

一度きりの人生を、つまらない一貫性にとらわれて不自由に生きるには、僕には時間がなさすぎる。

もちろん、それがわかった上で、ブレないことにこだわるのも人生だけどね。



さて、ちょっと発見したのだけど
感想をブログで書いてもらえると喜ぶグループ
のことが、こんなエントリで言及されていた。

ブログ初心者が気軽に質問できる場が欲しかった - はてブのまとめ

おそらくこのブロググループ機能を一番活用してるグループはこちらですね。
感想をブログで書いてもらえると喜ぶグループ - はてなブログ グループ
私がグループを作ろうと思ったきっかけはこの感想を言い合うグループを見たからなんですが、モチベーションをあげる意味で凄く面白い試みだと思います。

だそうです。

なんだか、面白そうなことになってきている。